雑考:日本人と日本語の起源

いくつかの用語にウィキペディア等へのリンクを張っておりますので、
興味があればジャンプして下さい。

ヴュルム氷期末における日本と近海 右の地図は、地図ソフトを使って切り出した日本付近の地図を加工したものです。
(※クリックすると拡大。作図の不正確さはご容赦下さい)

海の一部が黄色く色づけしてあります。もちろん、これは大陸棚、つまり200メートルよりも浅い海を意味しています。

約18000年前に極大期を迎えたヴュルム氷期には、北アメリカ大陸やヨーロッパ北部の上に厚さ数千メートルもの氷床が発達して地表水が海に戻らなかったために、海水面が現在よりも100〜140メートル低下していました。大陸棚の大部分は、氷河時代には陸化して平原を形成していたのです。このような大陸棚は地球上のいくつかの地域に見られます。

黄海・東シナ海・南シナ海、アンダマン湾(マレー半島西にある湾)、ベンガル湾、インド西岸、アラビア湾、チュニジア東岸の地中海、アドリア海、ビスケー湾、フロリダ半島周辺〜メキシコ湾北部、カンペチェ湾〜ユカタン半島北、アマゾン川河口周辺などです。これらの広大な大陸棚から、1万年以上前の遺跡が発見されても私は不思議には思いません。

さて、ヴュルム氷期が約12000年前に終わると、まず気温が上昇し、次いで地上の氷床が溶けて海に流れました。北アメリカ大陸では、ローレンシア氷床が溶けて流れ込んだ水によってできた現在の五大湖よりも大きな湖(アガシー湖)が決壊して、冷たい淡水がセントローレンス川を通って北大西洋に大量に注ぎ込みました。このため、海洋深層水の循環が乱されて大規模な寒の戻りが起きました。これがヤンガードリアス期です。このような寒の戻りを経ながらも、海水面は約2000年をかけてほぼ現在と同じくらいまで上昇しました。

東シナ海とその沿岸〜Google Earthより 日本列島付近で注目するべきことは、

  1. 右図(Google Earthによる)でわかるように、黄海の全域と東シナ海の大部分が大平原であった
    Google Earth API での東シナ海(表示に数十秒かかります。)
  2. 山陰地方〜北九州と朝鮮半島の間にも平原があった
  3. 瀬戸内海が陸化していた
  4. 北海道は樺太経由でシベリアと陸続きであった
  5. 深さ120メートル程度の浅い海底が続く対馬海峡(最深部は水深134メートル)が完全に陸化していたかどうかは、研究者によって判断が異なる
  6. 深さ数百メートルの海盆が連なる津軽海峡は、海盆間の水深が浅くても約140メートルなので、陸化することはなかった
  7. 宗谷海峡は、最大水深が70メートルなので、氷河期終了後もしばらくは陸化したままであった

ことです。

さて、私が日本人の起源に関する本を読んで不満に思うのは、上記の注目点のうち、5.ばかり注目される一方、ヴュルム氷期に存在した広大な平原≒現在の大陸棚が無視されていたり、軽視されていることです。つまり、九州と朝鮮半島の間が陸峡で繋がっていたかどうか、朝鮮半島や中国大陸(華北)から歩いて渡ることが可能であったかどうかばかり議論されていて、ヴュルム氷期にこの東シナ平原〜対馬平原に住んでいた人々がどうなったかという考察が行われていないのです。

また、この20年間、DNAの研究が大いに進歩しました。最初のうちは「ミトコンドリア・イブ仮説」が話題になったくらいでしたが、人類の拡散ルートの研究、更には日本人の起源の研究への応用も行われるようになりました。今やDNAを資料として活用しない研究は、研究史としての意味しかなくなったと言えます。その意味で、この数年間に読んで大いに参考になった本を列挙します。

  • 「日本人のルーツ 探索マップ」 道下しのぶ著、平凡社新書ISBN 4-582-85261-0
  • 「DNAから見た日本人」 斎藤成也著、ちくま新書、ISBN 4-480-06225-4
  • 「日本人になった祖先たち」 篠田謙一著、NHKブックス、ISBN 978-4-14-091078-8
  • 「DNAでたどる日本人10万年の旅」 崎谷満著、昭和堂、ISBN 978-4-8122-0753-6
  • 「稲作の起源」 池橋宏著、講談社選書メチエ、ISBN 4-0-258350-X
  • 「稲作渡来民」 池橋宏著、講談社選書メチエ、ISBN 978-4-06-258411-1
  • 「ここまでわかってきた 日本人の起源」 産経新聞生命ビッグバン取材班著、産経新聞出版発行/扶桑社発売、ISBN 978-4-594-05955-2

DNAには、具体的な遺伝情報を制御する有情報部分と、それよりもはるかに大きいが、ただ存在するだけのように思われる無情報部分とが存在します。突然変異(置換、欠落や多重化)はどちらの部分にも起こりますが、有情報部分Aに突然変異が発生した場合、ほとんどは個体の死に繋がり、その突然変異は子孫に伝わりません。個体の生存に有利なわずかな例外だけが子孫の繁栄をもたらします。しかし、無情報部分Bに突然変異が生じて、無情報部分B1、或いはCになったところで、個体の生存率には変化が生じず、突然変異はだんだん水面下で蓄積していきます。これを利用したのがDNAによる多系分析の原理です。

なお、現在日本人の起源に関する研究で実際に研究対象となるのは、DNA全体ではなく、ミトコンドリアDNAY染色体DNAです。ミトコンドリアDNAは、母系にのみ遺伝し、Y染色体は男系にのみ遺伝するという特徴があります。池橋宏氏の稲作の研究では、研究対象が稲という植物なので、ミトコンドリアDNAの代わりに葉緑体DNAが利用されています。

DNAを利用することのメリットは、次のようなことです。

  • 2値での分類ではなく、いくつものグループに分けられ、系統を辿ることが出来る。
  • 突然変異の頻度を基準に、グループが分岐した年代を求めることが出来る。
  • 頭示指数や筋肉の発達とは違って、生活習慣や栄養状態の変化による形質の変化とは無関係である。

Y染色体の亜型分化
(「DNAでたどる日本人10万年の旅」p.5 図1-1 を表に改変)

90,420
A(アフリカ固有) 42,800
BR
82,000
B(アフリカ固有) 36,800
CR
68,500
C 27,500
DE
38,300
D 13,000
F(FR)
53,000

35,600
NON 8,830
O 17,500

29,900
Q 17,700

上の表でクリーム色に色づけしたのが日本人に数パーセント以上見られるY染色体ハプログループです。数字は分岐が何年前に起きたかを示します。大文字アルファベットのグループは、D2やO2bのように、より細かく分類することが出来ます。ミトコンドリアDNAのハプログループも、同じようにアルファベットと数字を用いて分類されますが、初期の研究がアメリカ・インディアンを対象に行われ、その後は研究者の恣意に任されたため、結果として系統を無視したネーミングになってしまったそうです。その混乱を反省して、Y染色体ハプログループのネーミングは秩序正しく行われています。

各系統の移動ルートや成立の年代に関しては上記の書籍に任せるとして、これらの中で現在の日本人(九州・四国・本州)に多いのは、次の系統です。

  • D2系統 ― 26〜48%。縄文文化を形成したと推定される。D2系統が見られるのは日本列島だけだが、兄弟のD1系統、D3系統はチベットに多く見もられる。
  • O2b系統 ― 31〜36%。長江文明を起源とし、弥生文化をもたらしたと推定される。韓国でも51%見られる。兄弟のO2aやO2c系統は、中国南部やインドシナ半島のタイ語系民族に見られる。
  • O3系統 ― 14〜26%。中国大陸と共通。黄河文明と関連するO3e系統は東京で9%。ミャオ族と関連の深いO3c系統は日本では確認されていない。
  • C1系統 ― 0〜10%。太平洋側に多い。南方系(貝文文化)との関連が推定される。
  • C3系統 ― 0〜8%。シベリア細石刃文化との関連が想定される。
  • N系統 ― 0〜8%。シベリア西部やウラル系民族との関連が推定される。

ということで、上記等の参考文献に私自身の考えを加えると、旧石器時代後期から大和朝廷成立までの日本列島史は次のようになります。


旧石器時代後期(ヴュルム氷期晩期〜末期)

日本列島の旧石器時代後期の遺跡は、シベリアの細石刃文化との共通点が多く見られます。大型獣を追って主に北海道経由(時計回り)で流入して来たようですが、沿海州や朝鮮半島経由で九州北西不に流入したグループもあるようでです。東日本中心に湧別技法、中部〜西日本に小出川技法、九州北西部に西海技法の細石刃が分布します。

ヴュルム氷期は、前述のように約18000年前に極大期を迎え、寒の戻りが起きながらも約12000年前に終結します。その頃日本列島などで最古の土器作り(較正後約16000〜15000年前、較正前約130000年前)が始まったのでした。日本最古の土器は、縄文式のようなデコレーション過剰(?)なものではなく、無紋であったり、単純な文様であったりと中国大陸との類似が認められるようです。

縄文時代初期〜早期

山陰地方から朝鮮半島南部、黄海、渤海のすべてと東シナ海の3分の2以上にわたる広大な大陸棚(「東シナ平原」)が海水面の上昇で水没しましたが、私の考えでは、東シナ平原こそY染色体ハプログループDの故郷だったのです。そして東に避難した人々が日本列島に縄文文化をもたらして後の時代の縄文系倭人(D2)となり、西に避難した人々が中国大陸で東夷やチベット族の祖先(D1、D3、羌族?)になったに違いありません。安本美典氏が1970年代に講談社現代新書「日本語の成立」で「古極東アジア語」を提唱していますが、「東シナ平原」で「古極東アジア語」を話していたのがハプログループD系統だったのでしょう。日本人の起源を研究している学者たちの多くは、中国の華北がハプログループDの故地だったと考えているようですが、東シナ平原から西に避難して来る人々の流れに逆らって、拡大しつつある黄海・東シナ海を渡り、朝鮮半島の南岸に沿って、或いは朝鮮半島を縦断して日本列島に移住するなんてナンセンスです。

ハプログループC1の故地と思われる南西諸島の島々は、水没してしまったり狭くなったりして人口を支えきれなくなったので、人々は九州南部に避難し、貝文文化をもたらしました。また、世界各地の大陸棚で、水没しない陸地を求めて避難する人々の群れが見られたことでしょう。極東に位置し、アメリカ大陸に至るまで東に大きな陸地を持たない日本列島は、東アジア諸民族でモザイク状態になっていたのかもしれません。ただ、日本列島全体としては、Y染色体ハプログループDが主流だったと思われます。

縄文中期

研究者によると、縄文中期の気温は現在よりも平均2℃ほど高く、海水面は現在よりも数メートル高かったようです(縄文海進)。現在の関東平野にはかなり奧まで入江が発達し、当時の海岸線よりも2メートルくらい上の所に貝塚が見られます。当時数百人規模の村であった青森県の丸山三内遺跡では、自然林を伐採して栗を栽培していたことが判明しているなど、農耕の萌芽が見られます。

縄文時代の日本列島の人口は、国立民族学博物館の小山教授の研究によると、著しく東日本に偏って分布していたようです。これは、縄文中期の東日本がブナ樹林帯で、クリやドングリなどの堅果類が豊富であったの対して、照葉樹林帯の西日本では、堅果類は主にカシやシイに限られ、収穫量が少なかったことを反映していたと思われます。また、東日本では、塩を使ってサケの保存食が作られたのかも知れません。

そして約6400年前、鹿児島県の鬼界カルデラの大爆発が起こり、約9500年前から存在していた上野原遺跡をはじめとする貝文文化の民族集団(ハプログループC1)が壊滅・離散しました。火山灰は遠く関東地方にも飛来して堆積層を形成したことがわかっています。日本神話でイザナミは、火の神を産んだことが原因で死にますが、この事件を反映しているのかも知れません。

縄文後期〜晩期

約5000年前、地球は小氷期を迎え、現在よりも平均気温が1〜2℃低くなりました。この時期に東日本の人口が半減したとされていますが、それでも西日本よりは人口が多かったようです。縄文文化人は海や川の魚介類を採り、堅菓類を採集し、時にはイノシシやシカなどの鳥獣を捕まえて食べていました。雑穀やイモ類の栽培も始まっていたかも知れません。

九州では、壊滅した貝文文化に代わって、北九州の文化が南九州に伝播しました。

中国大陸の黄河中・下流域では、彩色土器で有名な仰韶(Yangshao)文化洛陽(Luoyang)の少し西で起こり、少し遅れて現在の山東省西部に黒陶で有名な龍山(Longshan)文化が起こって、漢民族の膨張が始まります。龍山文化の遺跡は、山東半島の東に行くほど古いという特徴があります。

長江中・下流域では、8000年くらい前から栄えていた河姆渡文化などの長江文明がこの頃終末を迎えます。気候の寒冷化(小氷期)で水稲稲作などの農業が不振で国力が疲弊した時に、王位継承の内紛に乗じた黄河文明人(漢民族)に攻撃されて敗北したのではないかと推定されています。更に夏は商に敗れ、その商も周に敗れます。東に大きな島があるという伝説を頼りに、遠く日本列島に舟で移住し、稲作を伝えたグループもあったことでしょうし、商王朝最後の王紂王の叔父箕子が朝鮮半島に逃れ、箕子朝鮮を築いたという伝説も案外史実だったのかも知れません。いずれにせよ中国大陸は民族の興亡が激しく、敗れた国の支配階級は、故地に留まって殺されたり奴隷にされたりするよりも、未開の土地に逃げた方がましと考えたことでしょう。

弥生初期

弥生時代の始まりは、2400〜2500年前というのが定説でした。中国の戦国時代の戦乱、特に呉や越の滅亡により、流民の一部が日本列島に移住し、稲作や弥生式土器をもたらしたという考えです。これに対して、10年くらい前から、国立歴史民俗博物館(略称「歴博」)の研究者たちを中心として、弥生時代の開始は更に500年ほど遡るという説が提唱されています。放射性炭素による年代測定を木材の年輪年代学の成果によって補正した、はずなのですが、安本美典氏や新井宏氏などが指摘するように、歴博の手法には重大な問題が潜んでいるようです。

  • 歴博が試料としている土器に付着した煤は、放射性炭素による年代測定の対象として適切ではない。
  • 大気中の放射性炭素の含有量は、大まかには平衡状態にあるが、気温や局地的な条件により撹乱を受けるため、年代を特定するにあたっては、十分なマージンを取らなくてはならない。数10年というピンポイント的な特定は論外である。
  • 日本における年輪年代学の研究は、まだ歴史が浅くて少人数のグループが行っているに過ぎず、客観性の検証が十分でない。

歴博の問題はさておき、縄文系土器と稲作が組み合わさった遺跡が北九州で発見されていることは、「弥生時代」の定義にも絡んで非常に興味深いと思います。とりあえず最初のうちは縄文土器で間に合わせた、という感じがします。土器の製作は、世界の諸民族同様、女性の役割だったのでしょう。また、初期の稲作渡来人が少人数であり、しかも男女比が著しく男性に偏っていたと考えれば、Y染色体ハプログループOb2に対応するミトコンドリアDNAハプログループが存在しないことの説明がつきます。中国の戦国時代、呉王夫差が中原で諸侯を集めて会盟を主催しようとしていたときに、越王勾践が呉を攻めて滅ぼしますが、稲作渡来民は中原に行っていた呉軍のなれの果てだったのかも知れません。彼らは、漁業を行い、既に雑穀や根菜の栽培も始めていた縄文人に入り婿的に迎えられ、やがて安定した地位を得ると、同郷人を朝鮮半島、或いは中国大陸から呼び寄せたに違いありません。水に恵まれた日本列島は、雨の少ない朝鮮半島や山東半島よりも稲作に適しているからです。後の時代の中国の史書に、倭人が呉の太伯の子孫を自称してるという記述がありますが、倭人(の一部?)は、自分たちの祖先が呉の地から来たという伝承を持っていたのでしょう。

言語学者である小泉保氏は、かつて長江文明を築いたオーストロアジア系の人々が、呉・越の崩壊後に四散し、東(日本列島)に逃げたグループは、元の言語を放棄して現地語(倭人語)に同化したのではないかという説を唱えています。池橋宏氏も稲作の伝播を研究する立場から小泉説に賛同していますが、私としては、彼らは語順の面で倭人語を受け入れても、語彙の点ではかなり倭人語に影響を与えたのではないかと考えています。日本語と口語中国語の助詞の類似、訓読みと音読みの類似例(絹:「きぬ」←→「ケン」、など類似しながらも音読みでは2つ目の子音に母音が付加されている例)を考えると、そう思えて仕方がないのです。

弥生中期〜後期

稲作渡来人と漁業・雑穀栽培主体の縄文文化人は混血して「渡来系倭人」となり、人口を加速度的に増加させます。縄文的生活では、食料の少ない季節をどう乗り切るかがネックでしたが、収穫量が多く、保存性の良い米がその問題を解決したのです。

人口が増えると分村が行われました。最初は同じ水系で、やがて別の水系で入植地が選ばれたことでしょう。池橋宏氏の考察によると、稲作渡来人にとっての入植適地は、あまり大きくない河川の、河口から少し上流に遡ったところだったそうです。大きな河川では、洪水を恐れて支流が選ばれました。また、私の考えでは、盆地や河川が山地から平野に出たところに形成される扇状地も適地だったと思われます。

こうして弥生村落が増えていき、やがて村落同士、水系同士で水田適地を巡って争う事態も起きたことでしょう。しかし、東を目指せば未開のフロンティアがあるのが救いでした。地域間は舟による交通で結ばれていたことでしょう。縄文時代の西日本の人口が東日本と比べて著しく少なかったことを考えると、西日本に陸の交易路が整備され、維持されていたとは考えにくいです。

稲作の伝播に関して、日本列島は4つの地域に分けられます。

  • 九州〜近畿・北陸
  • 東海〜関東・甲信越
  • 東北
  • 北海道

九州〜近畿・北陸は、もともと縄文系の人口が少なかったので、全く障害がなかったと思われます。むしろある程度人口が増えるまでは、人口の少なさそのものが稲作伝播の障害だったかも知れません。

東海〜関東・甲信越は、縄文中期よりは人口が激減したとはいえ、縄文文化の伝統が強く残る地域です。縄文文化人と紛争を避けながら入植していく必要があったことでしょう。

東北地方には関東地方よりも早く稲作が伝播しました。おそらく舟による日本海沿岸の海路が確立されていたのでしょう。しかし、弥生後期から小氷期となったので、冷害により凶作となる年も多く、結局東北地方北部では、水稲稲作が放棄されてしまったようです。

北海道は、気候的に稲作の受け入れは無理だったようです。本州が弥生時代に突入しても続縄文文化が続きました。

弥生末期〜古墳時代初期(邪馬台国の時代)

この時代、日本列島で特に成功した地域が2つありました。北九州と出雲地方です。

北九州は、中国大陸や朝鮮半島南西部との交流の表玄関でした。金属を輸入して加工し、翡翠や宝飾品となる貝を列島各地から集めて輸出していたのでしょう。亡命者も三々五々と来て、先進的な技術を伝えたことでしょう。また、朝鮮半島の南岸には倭人の国もあったようです。ただ、日本列島の西端にあるという地理的な条件が災いしたのか、或いは商業活動での繁栄に安住しすぎたのか、植民活動の点では後れを取ったのではないかと思われます。

逆に出雲地方は、北九州よりも日本列島の中心に近いという条件が有利に働いて、植民活動で成功したと思われます。全国の神社で祀られる八百万の神々が、神無月になると出雲に集まるのがその証拠です。ただ、建御名方命の振る舞いを見ると、求心力はそれほどでもなかったようです。

朝鮮半島との関係では、後の百済・任那となる朝鮮半島南西部と北九州の交流だけでなく、天之日矛伝説や三国遺事三国史記から、出雲・高志(越)と朝鮮半島南東部(斯廬・新羅)との交流が注目されます。朝鮮半島から舟で日本列島に向かうとき、洛東江(Nakdong-gang)河口よりも西から舳先を南に向けて漕げば、その水流を利用してなんとか半島の南東に位置する北九州にたどり着けるけれども、河口よりも東から漕ぎ出したのでは、洛東江の水流が利用できないので、対馬海流に流されて遥か東の出雲や高志(越)に着いてしまったのでしょう。日本古代史に造詣の深いSF作家豊田有恒氏は、自身も参加した角川春樹氏の「野生号」実験について、救助される羽目になった原因は、最初の計画では洛東江西岸から出発する予定だったのに、釜山市民の歓迎の熱烈さに負けて東岸の釜山市から出発してしまったことであると述懐しています。出発地が洛東江の東であるか西であるかは重要な意味を持つのです。

前述のように、北九州は商業活動で富んではいましたが、植民活動で後れを取っていました。そこで一発逆転の賭に出て、出雲の植民地を横取りしようとしたのがいわゆる「神武東征」だと私は考えます。神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ。いくつか別名あり。後の神武天皇)や兄の五瀬命(イツセノミコト)は、南九州遠征軍団、或いは南九州駐在軍団の指揮官だったのでしょう。

大隅半島と薩摩半島の南にはもう大洋が広がるだけであることを認識していた彼らは、東征を計画します。そして宇佐や安芸、吉備の豪族(王?)の協力を取り付け、北九州に戻って補給してから瀬戸内海を東進したのです。東征軍は、河内では長髄彦(ナガスネヒコ)に撃退され、五瀬命まで失ったものの、熊野で再上陸し、ついには長髄彦を打倒します。

斯くして伊波礼毘古は初代天皇(始馭天下之天皇)として即位しますが、西日本全体を支配したのではないことに注意する必要があります。北九州との間の瀬戸内海沿岸には、吉備や宇佐などの友好国が点在しても、自身の統治組織がありません。北九州との連絡さえ確固としたものではなく、支配範囲は大和盆地と河内くらいのものだったのでしょう。従って神武天皇は、大物主の神の娘とされる媛踏鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)と結婚したり、東征に協力した地元の豪族を県主に任命したりして足許を固めます。

ところで、「始馭天下之天皇」と「御肇国天皇」を共に「ハツクニシラス」スメラミコトと読み、神武と第十代崇神が同一人物であるとする説がありますが、私は賛成できません。素直に読めば、前者は「(天上界=高天原ではなく、)地上を始めて統治した」天皇であり、後者は「筆頭国を支配した」天皇という意味であり、意味が違うからです。


邪馬台国の位置と神武東征の有無、邪馬台国と大和朝廷の関係に関して、研究者によって様々な説があります。そもそも神武天皇など存在せず、崇神天皇、或いは応神天皇の事績の過去への投影に過ぎないという説、三輪王朝、河内王朝、継体王朝と王朝が次々と交代していったという説さえあります。その中で、前述のように私は安本美典氏の神武東遷説に賛成しています。安本氏の説は次のようなものです。

  • 天皇の在位年数は、時代が古くなるほど短くなる傾向がある。実在と在位年の記録が信用できる敏達天皇以降の古墳・飛鳥時代では、一代平均約11年に過ぎない。敏達天皇以前は一代平均11年以下であっただろう。
  • 敏達天皇を基準に、一代平均約11年として天皇の代を遡ると、神武天皇が活躍したのが西暦280年前後となる。更に代を遡ると、天照大神の世代が魏志倭人伝の卑弥呼の時代と重なる。したがって、天照大神=卑弥呼である可能性が高い。
  • 福岡県朝倉市甘木周辺の地名が、大和の地名と驚くほど一致するので、集団移住があったと考えられる(安本氏は、この一致が神武に先行するニギハヤヒによってもたらされた可能性も認めている)。

通称「魏志倭人伝」は、正しくは「三国志」の中の「魏書(志)東夷伝倭人条」と言います。「三国志」は、蜀出身の史家陳寿によって西暦280〜285年頃に書かれ、前王朝の歴史を記した正史として西晋王朝に認定されました。倭国への道程など、「三国志」の数年前に書かれた王沈の「魏書」や魚豢の「魏略」と似通った記述があります。陳寿が先行する2つの史書を参考にしたか、共通の資料があったのでしょう。また、人類学的な記述を大胆に行っていることに特色があります。

よく知られているように、「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国への道程は、現実の地理に合致しません。そのために邪馬台国論争が起きているわけですが、私は「陳寿の錯誤説」を提唱します。つまり陳寿は、人類学的な記述をするための資料集めの段階で、最新の倭国情勢も耳にしていて、魏の時代の外交記録からの引用に混ぜて「倭人条」を書いたと推測します。しかし、台与の朝貢以降、正式の外交使節が魏や西晋を訪れたわけではなく、取材源が交易商人や漁民であったので、商人や漁民にとっては常識であった神武東遷がすっぽりと抜けてしまった、というのが私の考えです。また、時間を表す副詞句によってしか現在と過去、現在完了を明確に区別できないという中国語の特徴が曲者なのかも知れません。台与の時代以降に東征が行われ、神武が東征先「大和」で即位したことに陳寿は気がついていなかったのではないでしょうか?

なお、魏志倭人伝に出てくる国名のうち、2つの文字に注目する必要があると思います。ひとつは「邪馬台国」の「台」の字、旧字では「臺」で、辞書によると「貴人が住んでいるところ」という意味があります。もうひとつは伊都国の「都」の字で、四川省の省都「成都」や中国戦国時代の呉の都「呉都」などにも使われているように、蛮人の国の名前としては良すぎるのです。伊都国王の先祖は、単に中国から渡って来たというだけでなく、中国の戦国諸国の王族の血を引いているのではないでしょうか?

言語の面では、大和王朝の成立以前から中国語の影響は続いたことに注目する必要があります。漢字の読み方に「呉音」「漢音」があることを知っているのは日本人として常識ですが、前の方で少し触れたように、呉音よりも古い中国語の層があると思われます。例えば、「絹」を「ケン」ではなく「キヌ」、「日」を「ジツ」ではなく「ニチ」、「色」を「ショク」ではなく「シキ」......。現代標準中国語(普通話)では単語(漢字)は1音節であり、長母音や二重・三重母音または「n」で終わります。広東語は古い中国語の特徴を残していて、子音で終わる漢字が普通にありますが、上記のように語尾に無理矢理母音を付加して2音節にしてしまうのがこの言わば「先呉音読み」の特徴です。「馬」や「梅」の読みの前に「ウ」を付加したり、「気」に「イ」を付けて「息(イキ、オキ)」という言葉を作ったり、語頭に母音を付けて2音節化したりするのも「先呉音読み」といえるでしょう。

倭の五王の求めに応じて中国から技術者が倭国に派遣され、百済からは漢人系の王仁博士が渡来しました。また、東漢氏、秦氏などが氏族をあげて渡来ましたし、百済や高句麗が滅亡したときに難民が日本列島に押し寄せました。渡来民は中国語で朝廷の記録文書や外交文書を作成したり、王族や豪族の子弟に教育を授けたりしただけではありません。東漢氏のように武人として活躍したり、秦氏のようにひたすら殖産に勤しんだ例もあります。当然、日常生活も営む上で王族や豪族以外の倭人とのつきあいも生じたことでしょう。和語にない文物や思想を表現するのに、中国語の単語を使わなかったはずはありません。それを聞いた倭人、特に庶民が、正確に発音できずに訛って発音したら......まるで明治以降の日本人が訛って英語を発音するのと同じです(走召火暴)。