東夷と中国語の起源

このページは、「風仙の中国語不定期日記」に書いたことのうち、日本語と中国語の間の有史前の関係について書いた項目を再編集・加筆したものです。


中国語の動詞は印欧語風の人称変化や時制変化を持ちません。また日本語の動詞にあるような未然、連体、終止、連用、仮定、命令などの活用を持ちません。また中国語にはすさまじい方言変化があって、ひとつの方言しか知らないと別の方言を使う人とは会話が成立しません。北方方言、呉語(上海語)、広東語、福建語(閩語....といったレベルの方言は、独立した「言語」として扱うべきだという説もあるくらいです。

これらの特徴と漢字という表意文字、そして中国の古代史を考え合わせると、中国語とは一種の人工的な商用言語から発達したのではないかと思えてきます。文法が単純であれば、語彙を増やすだけで言葉が通じ、更に発音がわからなくても文字を見るだけで意味がわかるというメリットがあるからです。

中国の河北省に殷墟という都市遺跡があります。まだ伝説的な「夏(xia「か」)」を滅ぼした国(といって良いかは疑問の余地があるが)をつくった民族は、「商人」と自称していました。商民族は交易を生業とし、中国史で初めて通貨を発明した民族として知られています。「殷」という名称は、本来は彼らの商品である織物の一種だったようです。今では「商人」は固有名詞ではなく、普通名詞になってしまいましたが、おそらく彼ら「商人」が中国語の原型を使っていたのでしょう。殷を倒した周は殷の遺産を受け継ぎ、ここに漢民族が誕生します。

ところで、最近の研究により「殷民族」は元から中原に住んでいたのではなく、東夷の一派だったことがわかってきました。南蛮、北狄、西戎、東夷の東夷です。

「東シナ平原」と東夷の原住地

私の考えでは、約1万2千年前に最終氷期が終わった頃、現在は大陸棚になっているが当時陸化していた「東シナ平原」に住んでいたのが東夷の祖先です。大陸の氷床が溶けて海水面が2〜3千年かけて100〜130m上昇していったとき、住んでいた土地が水没してしまって土地を失った東夷は四散したことでしょう。長江を西に遡上したグループ、黄河(最終氷期には済州島のそばに河口があった)を遡上したグループ、舟で東の日本列島に移住したグループ、北の朝鮮半島に移住したグループ....があったに違いありません。

民族の移住は、ジャレド・ダイアモンドが名著「銃・病原菌・鉄」(日本語訳は草思社から上・下巻として発行)で指摘しているように、主に東西方向に行われます。ただ、1万2千年前は、氷河期から間氷期への移行期だったので、真東や真西よりも少し北に移住した方がより現住地に類似した気候が得られたことでしょう。

日本列島に向かったグループは、西日本を通り過ぎて中部地方の高原や東北地方に定着したかも知れません。そう考えると、奈良時代や平安時代に大和朝廷に反抗した民族として知られる「エミシ」の表記に「蝦夷」と「夷」の字が使われるのは、それなりに根拠があると言えそうです。

さて、そうやっていくつかのグループに分裂した東夷ですが、グループ間の連絡が全く途絶えてしまったとは思えません。南西諸島でとれる美しい貝や糸魚川市を流れる姫川でとれる翡翠、長野県の霧ヶ峰や和田峠付近でとれる黒曜石などは物々交換の対象に違いありません。

黄河を遡上したグループや山東半島に向かったグループは、やがて仰韶(Yangshao)文化龍山(Longshan)文化を発達させます。仰韶文化は、中央アジアから草原の道を東進してきた遊牧民族との接触で生まれたという説もあります。龍山文化の遺跡には、南東のものほど古いという傾向がありますが、そのことは龍山文化の担い手が東から来たことを物語っているのかも知れません。また、中国神話の東王父西王母は、黄河文明が東西2つの起源を持つことを反映しているのでしょう。

太公望が活躍した殷周革命の頃は、遊牧文化の影響をあまり受けない東夷が中国大陸の東岸の山東半島から長江河口地域にかけていくつかのグループを形成して居住していました。しかし、周→春秋→戦国→秦→三国時代....という時代の流れの中で、いつしか漢民族に同化されてしまったのでした。