風仙洞

東夷と中国語の起源

最終更新:2024/03/16
作成:2011/10/05

このページは、「風仙の中国語不定期日記」に書いたことのうち、日本語と中国語の間の有史前の関係について書いた項目を再編集・加筆したものです。


中国語の動詞は印欧語風の人称変化や時制変化を持ちません。また日本語の動詞にあるような未然、連体、終止、連用、仮定、命令などの活用を持ちません。また中国語にはすさまじい方言変化があって、ひとつの方言しか知らないと別の方言を使う人とは会話が成立しません。北方方言、呉語(上海語)、広東語、福建語(閩語....といったレベルの方言は、独立した「言語」として扱うべきだという説もあるくらいです。

これらの特徴と漢字という表意文字、そして中国の古代史を考え合わせると、中国語とは一種の人工的な商用言語から発達したのではないかと思えてきます。文法が単純であれば、語彙を増やすだけで言葉が通じ、更に発音がわからなくても文字を見るだけで意味がわかるというメリットがあるからです。しかもつくりは多くの場合発音を表しています。

中国の河北省に殷墟という都市遺跡があります。まだ伝説的な「(xia)」を滅ぼした国(といって良いかは疑問の余地があるが)をつくったこの民族は、「商人」と自称していました。商民族は交易を生業とし、中国史で初めて通貨を発明した民族として知られています。「殷」という名称は、本来は彼らの商品である織物の一種だったようです。今では「商人」は固有名詞ではなく、普通名詞になってしまいましたが、おそらく彼ら「商人」が中国語の原型を使っていたのでしょう。殷を倒した周は殷の遺産を受け継ぎ、ここに漢民族が誕生します。

ところで、最近の研究により「殷民族」は元から中原に住んでいたのではなく、東夷の一派だったことがわかってきました。南蛮、北狄、西戎、東夷の東夷です。

「東シナ海平原」と東夷の原住地
  • Google Earth Pro の画面を筆者が画像化し、加工。
▼海水面 -125 m = 最終氷期極大期相当

私の考えでは、約1万2千年前に終わった最終氷期の終盤、現在は大陸棚になっているが当時陸化していた「東シナ平原」に住んでいたのが東夷の祖先です。最終氷期極大期(LGM)は 21,000~15,000 年前ですが、気温の上昇に数千年遅れて大陸の氷床が溶け始め、海水面が数千年かけて100~130m上昇していったとき、住んでいた土地が水没して住む土地を失った東夷は四散したことでしょう。長江を西に遡上したグループ、黄河(最終氷期には済州島のそばに河口があった)を遡上したグループ、遼河を遡上したグループ、舟で東の日本列島に移住したグループ、北の朝鮮半島に移住したグループ....があったに違いありません。

文庫版「銃・病原体・鉄(上)」表紙画像

民族の移住は、ジャレド・ダイアモンドが名著「銃・病原菌・鉄」(日本語訳は草思社から単行本と文庫本で上・下巻として発行)で指摘しているように、主に東西方向に行われます。しかし、1万2千年前は、氷河期から間氷期への移行期だったので、真東や真西よりも少し北に移住した方がより現住地に類似した気候が得られたことでしょう。

日本列島に向かったグループは、西日本を通り過ぎて中部地方の高原や東北地方に定着したかも知れません。そう考えると、奈良時代や平安時代に大和朝廷に反抗した民族として知られる「エミシ」の表記に「蝦夷」と「夷」の字が使われるのは、それなりに根拠があると言えそうです。

さて、そうやっていくつかのグループに分裂した東夷ですが、グループ間の連絡が全く途絶えてしまったとは思えません。南西諸島、特に宮古島でとれる美しい宝貝(キイロダカラ)や糸魚川市を流れる姫川でとれる翡翠ひすい(硬玉)、長野県の霧ヶ峰・和田峠付近、伊豆諸島の神津島、伊万里市の腰岳、大分県国東半島沖の姫島でとれる黒曜石、香川県坂出市五色台でとれるサヌカイトなどは物々交換の対象だったに違いありません。塩や干し魚、乾した海藻類も交易品だったかも知れません。

九州と中国地方西部の黒曜石とサヌカイト主産地の分布
九州の主な黒曜石とサヌカイト産地の分布

黄河を遡上したグループや山東半島に向かったグループは、やがて仰韶(Yangshao)文化龍山(Longshan)文化を発達させます。仰韶文化は、中央アジアから草原の道を東進してきた遊牧民族との接触で生まれたという説もあります。龍山文化の遺跡には、南東のものほど古いという傾向がありますが、そのことは龍山文化の担い手が東から来たことを物語っているのかも知れません。周~戦国時代に山東省、江蘇省、安徽省の省鏡地帯に存在した徐国が、偃王の時に強盛を誇ったのもこういった伝統があったからでしょう。

また、中国神話の東王父西王母は、黄河文明が東西2つの起源を持つことを反映しているのでしょう。

太公望が活躍した殷周革命の頃は、遊牧文化の影響をあまり受けない東夷が中国大陸の東岸の山東半島から長江河口地域にかけていくつかのグループを形成して居住していました。しかし、周→春秋→戦国→秦→三国時代....という時代の流れの中で、いつしか漢民族に同化されてしまったのでした。