縄文から弥生への環境変化
作成:2023/05/20
最終氷期から縄文時代へ
地球の表面は、海洋地殻と大陸地殻に分けられる。地表の7割を占める海洋は、厚さ5~10 km の玄武岩質から成る海洋地殻の上に海水が乗っている。残り3割の大陸は、玄武岩質の層の上に密度が少し低い花崗岩質の層が乗っている。
大陸棚は、一般的には水深200mまでの浅い海の領域を指すが、玄武岩質の層の上に花崗岩質の層が乗っているので、地殻構造から考えると大陸である。実際、氷河期には地表に現れていた。
ヴュルム氷期、ウィスコンシン氷期とも呼ばれる最終氷期は、約7万年前に始まり、3万3千年前に寒冷化が本格して氷床が広がり始め、2万1千年前~1万8千年前にピークを迎えた。平均気温は現代よりも約6℃低く、北半球の数ヶ所に厚さ2,000~3,000 メートルの巨大な氷床が広がり、降水が海に戻らなかったため、海水面は現在よりも 120~130 メートル低くなっていた。氷床とその周囲では、氷床の重さで地殻が沈降していた。
- 最終氷期の氷床
-
- 南極大陸
- グリーンランド
- スカンジナビア半島・バルト海
- 北アメリカ(極大期には合体)
- ローレンシア(五大湖周辺)
- コルジエラ(ロッキー山脈)
- 現代の氷床
-
- 南極大陸
- グリーンランド
一般に、氷河期から間氷期への移り変わりには、
- 氷床の厖大な重みから解放されたことによる大陸地殻の隆起(最大数 100 m)
- 氷河が融解して海に流れ込んで海水面が上昇したことによる大陸棚の水没(最大120~130 m)
- 氷河融解による膨大な量の水が海に流れ込んだことによる重みでの海洋底の沈降(最大 10 m程度?)
- 上からの圧力の変化によるマントルの移動(海洋部分 → 大陸)
が起こる。
日本列島周辺では、
- 東シナ海の西側3分の2は、現在大陸棚であるが、最終氷期極大期にはほとんど陸化していて、いわば「東シナ海平原」となっていた(東側3分の1は沖縄トラフなので深い)。
- 「東シナ海平原」の北半分は乾燥ステップ、南半分は森林ステップ(疎開林)であった。黄海と朝鮮半島も乾燥ステップであった。
- 日本列島の本州、九州、四国は「開いた針葉樹林」であった。北海道、サハリン、沿海州、中国東北部は寒冷な小雨気候であった。
日本列島で発見された最も古い現生人類遺跡は、長野県の香坂山遺跡(約35,000~38,000年前)である。このため、現生人類が日本列島に進出してきたのは約4万年前と推定されている。その頃の海水面は、現在よりも70~80m 低かったと推定される。北海道は樺太から伸びてきた大きな半島の南端であった。
縄文時代は縄目の文様が付いた土器に因むが、より古い土器が発見される度に開始時期が早くなる。現在は約16,000年前に始まったとされる。約21000年前の最寒期を過ぎ、氷期終焉に向けて温暖化が始まり、氷床が融けて海水面が上昇し始めた時期である。
現代人の感覚では、氷河期が終わって温暖化したことは、北半球の中高緯度地域では歓迎すべきことであったように思える。しかし、不都合な面も存在する。
- 野生の大型動物が減少する。或いはより北に移動する。
- 堅果類の採れる場所が北や標高の高い地域に変わる。
- 氷河期の間陸化していた大陸棚が水没する。
- 湿度が高くなった地域では、疫病が流行しやすくなる。
- 日本列島の日本海側では、対馬海流が進入するようになってもたらされた大量の降雪との共存方法が課題となる。
このため、北や標高の高い地域への避難が行われたはずである。少なくとも、住んでいた場所が水没したのに住み続けられるのは水上家屋に住む習慣を身につけた民族だけであろう。中国の福建省から広西壮族自治区、広東省にかけて、蛋民と呼ばれ、船を家とする水上生活者もいるが、それでも陸との関わりを持たずにはいられない。
現代では、何の因果か、温暖化による海水面の上昇をいかに防ぐかが人類の課題となってしまった......(^^;;;
東シナ海平原からの避難
東シナ海平原に住んでいた人々にとって、避難の方向は5つ考えられる。
- 九州
- 朝鮮半島
- 遼河流域・中原(済水流域)
- 山東半島根元(黄河・淮河流域)
- 長江流域・銭塘江流域
である。道を作りながら内陸に行くよりも、舟で海や川を移動し、適地を見つけて上陸した方が楽だと思うが、果たして......。
なお、華北平原に入ってからの黄河は河床が周囲よりも高く、大洪水があると決壊して流路を変える暴れ川であり、歴史時代になってからも何度も流路を変えている。現在の本流は渤海湾に注ぐが、開封あたりから東流し、黄海に注いでいた時期もある。
中国の新石器時代遺跡として最も古いのは、長江中流域の玉蟾岩遺跡(緑Y)や仙人頭遺跡・吊桶環遺跡(緑X)であり、約14,000年前のものである。その後、黄河流域や遼河流域を中心に赤(10,000~7,000年前)の遺跡が増える。
続く7,000~5,000年前(黄)は長江下流域と黄河中流域西部が隆盛する。湖南省のあたりは暑すぎて、人々は涼しい海風を求めたのかも知れない。或いは洞庭湖が拡大したのかも知れない。
時期 | C:長江流域 | H:黄河流域 |
---|---|---|
1 | 玉蟾岩文化 | 該当無し |
2 | 彭頭山文化 | 裴李崗文化/磁山文化/老官台文化/後李文化 |
3 | 大渓文化/河姆渡文化/馬家浜文化/崧沢文化 | 仰韶文化/北辛文化 |
4 | 屈家嶺文化/石家河文化/良渚文化/宝墩文化 | 龍山文化/大汶口文化/馬家窯文化/斉家文化 |
5 | 馬橋文化/三星堆文化/十二橋金沙文化 | 二里頭文化(夏?)/二里岡文化(商?)/西周・春秋・戦国 |
秦/前漢/新/後漢 | ||
三国(魏・呉・蜀)/晋/十六国 |
縄文時代の交易ルート
琉球諸島の貝製装身具や糸魚川周辺で産出する翡翠、列島各地の黒曜石は、縄文時代に相当する大陸の遺跡でも発見されている。
- 日本の主な黒曜石産地
-
- 北海道旧白滝村
(現遠軽町の一部) - 長野県霧ヶ峰周辺
- 伊豆諸島の神津島
- 静岡県伊豆天城(筏場、柏峠)
- 静岡県熱海市上多賀
- 神奈川県箱根町
- 島根県隠岐島
- 大分県姫島
- 佐賀県伊万里市越岳
- 長崎県松浦市の牟田
- 長崎県佐世保市の東浜と針尾
- 長崎県川棚町の大崎
- 産地リストはウィキペディアの「黒曜石」の項目による。
- 北海道旧白滝村
黄河文明で通貨として利用されたタカラガイ(特にキイロダカラ、ハナビラダカラ)の産地は琉球列島であるらしい(熊本大学の木下尚子教授の研究)。アマチュア古代史研究家の丸地三郎氏は、木下教授の説を発展させて、八重山諸島宮古島の浅瀬である八重干瀬でタカラガイの養殖が行われていたに違いないと推定している。
沖縄には古代からサバニと呼ばれる優秀な舟があった。古くは石鑿でくり抜かれた丸木舟であったが、後年丸木舟を製作するのに適した木材が不足し、伐採禁止令が出されたため、板材で作られるようになった。手で漕いだり帆を張ったりして推進力を得るだけでなく、海流をもうまく利用したに違いないと私は考える。
脱線するが、魏志倭人伝には持斎に似た持衰という言葉が出てくる。持斎同様「じさい」と読まれることになっているが、数百年後の鮮卑族の影響を受けた隋唐音を反映する漢音で読まれる理由を私は知らない。呉音ならば「じすい」である。また、精進潔斎し、女性を近づけないだけならばわかるが、汚れ放題にならなければならないという記述も納得いかない。本当は水先案内人という意味で知水という言葉があって、それが面白おかしく伝わったのではないだろうか? 航路(海流)を外れないように留意し、天気の変化を読むのに熱心になるあまり、結果として身だしなみが疎かになっても納得できる。もし嵐に遭ったら殺されるのも道理である。役目を疎かにしたことになるからである。
さて、日本列島の周囲には、対馬海流とリマン海流を利用した日本海を反時計回りに回るルート(環日本海ルート)と、黒潮・対馬海流・黄海沿岸の弱い海流を乗り継いで東シナ海・黄海を反時計回りに回るルート(環東シナ海・黄海ルート)があったに違いない(時計回りは海流に逆らわなくてはならないので大変)。この2つの交易ルートの結節点にあるのが対馬や壱岐、五島列島である。また、もしかすると第3のルート(南西諸島~日本列島の太平洋側沖~伊豆小笠原諸島~マリアナ諸島~フィリピン諸島沖~南西諸島)もあったかも知れない。これはニホンウナギの回遊ルートでもある。
環東シナ海・黄海ルートの南西には福建省の省都福州市がある。福州市あたりを出港して東に向かえば尖閣諸島に着く。尖閣諸島は最終氷期極大期には中国大陸の東端であった。好漁場でもある。漕いでばかりいたら疲労困憊してしまうので、海流や風を上手く利用して労力を省き、昼は島影や雲、夜は北極星や北斗七星、カシオペア座などを手がかりに方角を知るノウハウを身につけたのが倭人、特に海人族の先祖であろう。春には吉祥の鳥ツバメ(燕、玄鳥、乙鳥)が道連れになってくれたかも知れない。航路を外れていない証だからである。
先史時代の人口
下の表は2022年10月に亡くなった故小山修三教授による縄文時代の日本列島の地域別人口の推計である。遺跡で発見された住居数から人口を推計されている。非常に有名な研究成果なので、ご存知の方も多いであろう。
早期 | 前期 | 中期 | 後期 | 晩期 | 弥生 | 土師 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
東北 | 2000 (0.03) | 19200 (0.29) | 46700 (0.70) | 43800 (0.65) | 39500 (0.59) | 33400 (0.50) | 288600 (4.31) |
関東 | 9700 (0.30) | 42800 (1.34) | 95400 (2.98) | 51600 (1.61) |
7700 (0.24) | 99000 (3.09) | 943300 (29.48) |
北陸 | 400 (0.02) | 4200 (0.17) | 24600 (0.98) | 15700 (0.63) | 5100 (0.20) | 20700 (0.83) | 491800 (19.67) |
中部 | 3000 (0.10) | 25300 (0.84) | 71900 (2.40) | 22000 (0.73) | 6000 (0.20) | 84200 (2.81) | 289700 (9.66) |
東海 | 2200 (0.16) | 5000 (0.36) | 13200 (0.94) | 7600 (0.54) | 6600 (0.47) | 55300 (3.95) | 298700 (9.66) |
近畿 | 300 (0.01) | 1700 (0.05) | 2800 (0.09) | 4400 (0.14) | 2100 (0.07) | 108300 (3.38) | 1217300 (38.04) |
中国 | 400 (0.01) |
1300 (0.04) |
1200 (0.04) |
2400 (0.07) |
2000 (0.06) |
58800 (1.84) |
839400 (26.23) |
四国 | 200 (0.01) |
400 (0.02) |
200 (0.01) |
2700 (0.14) |
500 (0.03) |
30100 (1.58) |
320600 (16.87) |
九州 | 1900 (0.05) |
5600 (0.13) |
5300 (0.13) |
10100 (0.24) |
6300 (0.15) |
105100 (2.50) |
710400 (16.91) |
全国 | 20100 (0.07) | 105500 (0.36) | 261300 (0.89) | 160300 (0.55) |
75800 (0.26) | 594900 (2.03) | 5399800 (18.43) |
- 原註:( )内は人口密度。[KOYAMA 1978:56]に訂正を加えた。
- 数字データは「国立民族学博物館研究報告 9巻1号掲載の『縄文人口シミュレーション』(1984年)表2a」より。着色は筆者。
- 縄文時代
-
- 草創期:17000~11500年前
- 早期:11500~7000年前
- 前期:7000~5500年前
- 中期:5500~4400年前
- 後期:4400~3200年前
- 晩期:3200~2400年前(関東・東北)
- 境界年代は佐々木(2020)によるので、小山教授の研究とはずれが生じているかも知れない。
最新の有力な区分では早期の前に草創期が設定されること、また近年発見された遺跡はカウントされていないという問題はあるが、この表から明らかなことは、
- 縄文早期にはどの地方も人口が少なかった。関東地方だけは多少ましであったが、それでも約1万人。
- 草創期から早期、中期にかけての東北、関東、中部の人口増加が著しい。中期には北陸の人口も激増する。
- 東海、近畿、中国、四国、九州の人口は縄文時代一貫して少なかった(特に着色部分)。例えば縄文中期には、全人口約26万人に対して、近畿以西は1万人にも満たない。
- 縄文時代後期、晩期に東北地方以外の人口が激減した。
- 弥生時代になると、関東以西では人口が激増した。
- 土師時代(古墳時代?)になると東北地方の人口も急増した。
である。縄文時代におけるこのような極端な人口の偏りは、なぜ生じたのであろうか?
第1の原因は植生である。最終氷期が終わって平均気温が約6℃上昇した結果、日本付近の気候帯は全体的に北上し、それに伴って植生帯も北上した。現在の日本列島主要部で広がるのは、
- ブナクラス域(夏緑広葉樹林帯=右図の緑系色部分):北海道渡島半島~東北地方~北陸地方~中部山地
- ヤブツバキクラス域(常緑広葉樹林帯=右図の青系色部分):関東地方~東海地方~近畿地方~中国地方~四国~九州
である。常緑広葉樹林(照葉樹林)で食用となる堅果の生る樹木はシイ類とカシ類が代表であるが、収穫量が乏しい。従って狩猟対象となる動物も少ない。狩猟採集段階の文化では致命的である。これに対して夏緑(冬に落葉)広葉樹林はブナ、ミズナラ、コナラ、クヌギ、カシワ、クリ等と豊富である。しかもサケなどの魚も多い。
第2の原因は大規模な火山噴火による災害である。九州の火山は大爆発により直径 20km ものカルデラを形成する傾向がある。
約9万年前だった阿蘇カルデラはホモ・サピエンスには直接関係ないが、姶良カルデラは現生人類が日本列島に渡来した後の約3万年前に超特大のカタストロフィー噴火を起こした(最終氷期の寒冷本格化と関係あるかも)。約7300年前の鬼界カルデラの大噴火は、規模こそ姶良カルデラに及ばないが、種子島、屋久島、大隅半島、薩摩半島の縄文文化を壊滅させた。ウィキペディアの「鬼界アカホヤ火山灰」の項目には、南九州では火山灰の影響により約600年から900年間は照葉樹林が復活しなかった
とある。アカホヤ火山灰の層が年代境界なのである。
- 雲仙岳
- 阿蘇山
- 九重山
- 鶴見岳
- 由布岳
- 霧島山
- 桜島
- 開聞岳
- 硫黄岳(硫黄島=鬼界ヶ島)
- 古岳(口永良部島)
- 諏訪之瀬島
火山は地上にあるだけでなく、沖縄トラフや伊豆小笠原諸島周辺の海底にもある。玄界灘に面した地域を除く九州は、数千年単位で見ると危険地帯である。カタストロフィー噴火という規模ではないが、栫ノ原遺跡や上野原遺跡は桜島からの火山灰で約11500年前に滅んでいる(上野原遺跡はその後も滅んでは再興した)。
様々な渡来人
日本人の遺伝学的成り立ちは、たいてい弥生人と縄文人の2つの混血と説明されている。しかし、上の小山教授による縄文時代の東に極端に偏った人口推計や、日本の東西文化の違いを考えると、そんな単純なものだろうかという疑問が湧く。下のように少なくとも8つあるはずである。もっと多いかも知れない。
- 旧石器文化人系:最終氷期極大期以前から日本列島に居住し、その後も日本列島に居残った人々の子孫。
- 縄文草創期・早期渡来系:最終氷期極大期~ほぼ現在と同じまで海水面が上昇したときまでに「東シナ海平原」などから渡来した人々の子孫。
- 縄文中期渡来系:縄文中期の気温が現在よりも1~2℃高く、海水面も1~2メートルかった時期に中国大陸南東部から渡来した人々の子孫。オーストロネシア語族の拡散と関係あるかも。
- 縄文後期渡来系:中国大陸、特に中原が天候不順で豪雨、洪水、旱魃に見舞われた約4000年前に中国中原・山東半島から朝鮮半島経由で渡来した人々の子孫。ただし、非常に少数であったであろう。
- 動乱避難弥生系:商周革命、春秋・戦国の動乱から逃れて来た人々の子孫(山東半島・朝鮮半島経由?)。
- 徐福集団弥生系:秦始皇帝の命令で不老不死の薬草を探索するという名目で出発した童男童女3000人、百工、徐福ら指導者の子孫。最初から政治勢力を築いていた可能性がある。
- 秦氏系渡来人:古墳時代に大勢の人々を率いて朝鮮半島から渡来した弓月君を中心とする一団の子孫。京都盆地を中心に近畿地方に強力な経済的地盤を築いた。
- 百済系渡来人:古墳時代~百済滅亡時に渡来し、豪族や大和朝廷の官人、地方の屯倉の管理者となった王族・貴族の子孫。
約6千年前に拡散が始まったオーストロネシア語族の原郷は台湾あるいは対岸の福建省であるという説が有力である。近年はフィリピンから拡散したのではないかという異説も唱えられているが、いずれにしても何故オーストロネシア語族の拡散が始まったのか、また、日本人の祖先や沖縄のサバニ舟技術との関連はあるのか、興味は尽きない。河姆渡文化、良渚文化による圧迫、疫病、人口増大......?
長江中流域の玉蟾岩遺跡、仙人洞・吊桶環遺跡では約1万年以上前から稲が栽培されている。
中国の夏王朝では、雑穀(稗・粟・黍)と豆類の栽培の他、牧畜も行われた。小麦栽培が広まったのは商王朝(約3700年前~3050年前)からである。偃師の遺跡からは大量の炭化米も出土している。農学者の池橋宏氏の研究によると、甲骨文字には黍を表す文字と共に稲を表すと見られる文字があったので、天水農耕ながら稲が栽培されていたようである。ただし、当時の品種と農業技術では、中原が栽培北限であって収穫が不安定であったためか、稲作の伝統は途絶えてしまった。
蕎麦の原産地は、1980年代から2000年代にかけて植物学者の大西近江らの集団遺伝学的研究により、雲南省北部の三江併流と呼ばれる地域との説が有力となっている。
日本では、約6000年前の岡山県の遺跡からコメのプラントオパールが発見されているが、熱帯ジャポニカ、つまり陸稲だったらしい。その後、約2500年前に朝鮮半島と共通の DNA をもつ超短粒米が福岡平野から広まるが(歴博は弥生時代の開始を紀元前10世紀にしようと必死である)、やがて有明海北岸から広まった短粒米に取って代わられた。この短粒米は、中国江蘇省連雲港市東海県焦庄遺跡出土の米と DNA が一致する。焦庄遺跡は徐福村(連雲港市贛楡区金山鎮)や秦代の造船所遺跡のある柘汪鎮大王坊村は同じ連雲港市内であり、徐氏の根城である山東省臨沂市郯城県にも近いので、徐福集団が紀元前220年頃にこの品種を日本にもたらしたのではないかと考えられる。
- Z:長安(現在の西安)
- L:洛陽
- Q:曲阜(魯の都)
- S:蘇州(呉の都)
- H:会稽(=紹興、越の都)
- C:臨淄(斉の都、現在の淄博市臨淄区)
- R:琅琊郡治(青島市黄島区琅琊鎮)
35.687239,119.857782 - X:徐(山東省臨沂市郯城県)
34.616104,118.346248 - Y:郢(楚の都、楚紀南故城)
30.421016,112.177233 - J:焦庄遺跡(連雲港市東海県焦庄)
34.542378,118.753027 - F:連雲港市贛楡区金山鎮徐福村
35.002169,119.079058 - D:連雲港市贛楡区柘汪鎮大王坊村(秦代造船所遺跡)
35.103063,119.288176
魏志倭人伝には、倭人の風俗、風土として次のようなことが書かれている。
- 越人のように入れ墨して大魚や水鳥の危害を避ける。
- 貫頭衣を着用。
- 稲・いちび・紵麻(からむし)を栽培。養蚕。
- 牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし=黄河流域以北の動物がいない。
- 弓は上部が長く、下部が短い。
- 温暖で冬も夏も生野菜を食べ、みな裸足。
- 風俗・習慣・産物等は儋耳・朱崖と同じ。
山東省南部よりもかなり南の感じである。「江南」として認識される杭州湾沿岸(呉・越)、或いは更に南ではないだろうか? 徐福集団の前に、黒潮を利用して九州に三々五々移住したオーストロネシア語族の波があったのではないかと疑われる。
魏志倭人伝には、邪馬台国が「会稽東冶之東」に当たるであろうと記されているが、方位として東なのではなく、舳先を向ける方向が東なのだと思う。
会稽郡東冶であった福建省福州市あたりから舳先を東に向けて舟で出港し、尖閣諸島から更に進むと、当然ながら黒潮に流されるので、吐噶喇列島から五島列島までの島々のどこかに到達する。タカラガイの調達のような明確な目的を持ち、しかも余程頑張らないと、黒潮を横断して宮古島など先島諸島には行けない。
なお、「会稽東冶之東」ではなく、「会稽東治之東」が正しいという説もある。この場合に従うと、「会稽東治之東」は、会稽郡の東の郡治〈郡の役所。蘇州 or 紹興〉と同緯度にある鹿児島湾周辺に邪馬台国があったことになる。