風仙洞

「多久」+「甘」+「原」
=「高天原」

最終更新:2024/03/15
作成:2011/12/25

「高天原(たかまがはら)」とは、古事記にある日本神話の舞台です。古事記や日本書紀の武烈天皇以前の部分は創作だから、「高天原」の比定などそもそもナンセンスであるという学説も有力ですが、私は安本美典氏と同じく、神話にもある程度の歴史的事実が反映されているのではないかと思います。

安本氏は、高天原=邪馬台国、都城=旧「甘木市」(現「朝倉市甘木」)周辺と考え、甘木周辺の地名と大和の地名の一致から、甘木から大和への集団移住(いわゆる「神武東遷」)があったに違いないと推定しています。

私は、安本説の延長として、高天原の範囲を佐賀県の多久盆地~筑紫平野と考え、東西の端の地名をとって「タク・アマが原」が高天原の語源ではないかと考えました。多久盆地は東に開いていますので、筑紫平野の一部と見なすことができます。

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甘木は、邪馬台国の比定地としてあまりにも有名なので、解説はいらないと思いますが、多久については、

と解説しておきます。

さて、「タク・アマが原」が縮まって「タカマが原」になるのは理解しやすいと思いますが、甘木(アマギ)が「アマ」と略されることには説明が必要かと思います。

学研「新漢和大字典(普及版)」

日本各地に「~城」「~木」を「ギ」「キ」と読む地名が存在しますが、この場合の「ギ」「キ」は本来「邑(「都市」という意味)」だったのではないかと思います。「邑」の現代中国語ピンインは「yi」であり、上古音(周代~秦・漢代)は学研「新漢和大字典」によると「ɪəp」ですが、

を考えると、上古音の末期である魏志倭人伝の時代に、上古音以前の発音が残っていて「邑」が「ギ」、或いはそれに近い音で発音された地方があったはずです。「城」の現代中国語ピンインは「cheng」なので、似た意味の漢字として歴史のどこかで「邑」と入れ替わってしまったのでしょう。

そう考えていくと、「甘木」の本当の固有名部分は「甘」となり、「多久」+「甘」+「原」=「高天原」という方程式が成立します。「高天原」は後の時代の畿内、現代の首都圏に相当するものだったのでしょう。

「甘木」は、魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」の比定地でもあります。「アマギ」がなぜ「邪馬台国」の「ヤマ」になるのかを理解するには、まず、中国語の音韻上の特徴を知る必要があります。

意外なことですが、実は中国語には余計な音素を付加せずに「ア(アー)」という音を表記する漢字が事実上存在しません。もちろん、全く無いわけではなく、

の6つあります。

小学館「中日辞典 第3版」

しかし、「阿」は電子辞書に搭載された中日辞典によると、

  1. [接頭語]〈方〉親しみを表す。
    1. …ちゃん、…さん。同族の同世代間の長幼の順序〈排行(はいこう)〉や姓または幼名の前につける。
    2. 親族名称の前に付ける。
  2. 外国語の音訳(a などに当てる)。

となっています。

「啊」は、「〔感嘆詞〕驚いたときに発する言葉」なので、要するに「あっ」です。

「锕」はアクチニウムという元素を意味するので、魏志倭人伝の時代に存在するはずはありません。

「腌」は「塩漬けにする」という意味ですが、「yan」という読みの方が一般的です。

「嗄」「呵」は、「啊」と同じ意味です。

以上のように、「ア」と発音されるまともな中国語単語は存在しません。日本語で「ア」と音読みする漢字はいくつも存在するものの、それらの漢字は、中国語ピンインで、

と表記されるのです。魏志倭人伝の時代の中国人、或いは中国語を解する倭人は、「アマ」を漢字表記する時、「ア」の部分には当時「ya」を表す漢字を使わざるを得ず、「ya」を表す漢字の代表であった「邪」を選んだに違いありません。

現代中国語では、「邪」を「xie(シエ)」と読みますが、かなり系統の違う方言、或いは中国で征服王朝を樹立した異民族の言語の影響があるのでしょう。