風仙洞

屋久島=雨の島

最終更新:2024/03/09
作成:2015/03/23

屋久島は、鹿児島県の大隅半島の南に位置する東西約 28 km、南北約 24 km の島である。東隣には種子島がある。

下の地図(屋久島を中心とした「グーグル・マップ」の地形表示)でわかる通り、島のほとんどが山地であり、最高峰の宮之浦岳 1,936 m をはじめ、1,900 m 台の山も数座ある。

Google MAP 地形表示による屋久島
  • 画像をクリックすると Google MAP 地形表示の屋久島を別タブで表示。

雨の多さで知られ、年間降水量は、平地でも約 4,000 mm、山地では 8,000 mm から 10,000 mm にも達する。日本平均では 1,718 mm であるから、いかに多いかがわかるだろう。海上の湿った風が屋久島の山地にぶつかって上昇気流となり、上空で冷やされて雨雲をつくるのである。屋久島名物の縄文杉は、この豊富な降雨のおかげである。

屋久島は、「月のうち35日が雨」と言われ、「雨の島」という別名までもつ。

そこで、語源に定説がないのを幸いに、「屋久」の部分が実際に「雨」だったのではないかと仮説を立ててみた

学研「新漢和大字典(普及版)」

現代中国語の標準語「普通話」では、「雨」の発音(Pinyin)は「」である。しかし、学研「新漢和大字典」によると、周代~漢代に使われた上古音では、「ɦɪuag」であった。

ウィキペディアの「国際音声記号の文字一覧」の項目によると、「ɦ」は「上鉤付きのH」と呼び、「有声声門摩擦音」に分類され、多くは /h/ の異音として現れるそうである。

有声声門摩擦音(ゆうせい・せいもん・まさつおん 英:voiced glottal fricative)とは子音の類型の一つで、息漏れ声またはささやき声の短いものである。国際音声字母で[?]と記述される。「有声」といわれるが通常の有声音とは異なり、声帯は不完全な振動をする。
  • ウィキペディアの「有声声門摩擦音」の項目による。

しかし、実際問題として「ɦɪuag」をどう発音したら良いのだろう? 「ɦ」を「hiuag」よりも、むしろ促音のような、声にならない間と解釈して、「?iuag」と発音したら良いだろうか? これなら、五母音体系、開音節の言語の話者(要するに日本人)でも、外国語の複雑な発音に慣れていれば「ュア」と発音できそうだし、慣れていなければ「ヤグ」「ヤク」と発音しそうである。ふぅ、やれやれ、口が曲がりそうだ。

やたらと雨の多い島だから、「雨(ヤグ)」島と名付けられても自然である。しかも、地名というものは、数百年という時間が経過して語源がわからなくなっても保存されるものである。

残る謎は、どうしてこの島に中国語上古音の名前がついたかであるが、秦始皇帝の時代、徐福の一行が名付けたのではないだろうか?

秦始皇帝は、絶対権力を握っていたが故に、死んで絶対権力を失うことを恐れた。だからなんとかして噂に聞く不老長寿の仙薬を手に入れて神になることを望んだ。

一方、方士である徐福は、戦国時代の姫姓呉や越王家、或いは斉の田氏のなどの高貴な血筋を秦始皇帝から守りたいと願ったのではないだろうか? 或いは徐福自身、遠祖は五帝の一人顓頊せんぎょくに遡り、夏王朝~戦国時代には山東省・江蘇省・安徽省の省境地帯にあった徐国を支配した徐氏一族の出身なので、同族の新天地を求めたのかも知れない。そこで始皇帝の不死願望を利用して亡命計画を練り、一芝居打ったのであろう。
「徐福と焦庄」のページ

童男童女3000人に加えて多くの技術者を乗せた探検船団(実は亡命船団)は東海に出航し、再び中国に帰ることはなかった.....。

東シナ海を中心とした海流
  • Google Earth Pro のスクリーンショットを加工。

佐賀県を始め日本各地に徐福伝説が残る一方、徐福一行が東シナ海でどういう航路を取ったかは記録がない。しかし、朝鮮半島で食料や水の補給を得ることが期待できない以上、中国大陸東岸に沿って南下し、台湾の北東で(尖閣諸島あたりで)日本海流に乗るのが、距離は長くなっても労力が少なく合理的である。山東半島 → 朝鮮半島西岸沖 → 朝鮮半島南岸沖と辿って九州に来るのは海流に逆らい続けることになる上、東シナ海の真ん中で凪状態になったら悲惨である。

そこで、屋久島が「雨の島」であることが重要になる。雨が降るということは、上空に雨雲があるということである。屋久島上空の雲は、遥か遠くからでも視認できる。いわば灯台代わりとして(ヤク!)に立つ。雲がない時間でも、聳え立つ山地が目印となる。南西の吐噶喇列島や北西の草垣諸島の小さな島々とは区別がつくであろう。屋久島の雨雲か山地が見えたら北を目指せば良いのである。

屋久島自体は稲作民の定住先として恵まれていない。なにしろ海岸近くまで山ばかりで平地が少ない。しかし東隣には種子島があり、北には大隅半島や薩摩半島がある。

種子島南部の太平洋に面した海岸砂丘上には、広田遺跡という弥生後期から7世紀にかけての墓地遺跡があり、158体もの人骨が大量の貝製装身具や貝符を伴って出土している。なぜここに墓地遺跡があるのか......その疑問には、徐福一行の最初の記念すべき上陸地だったからと考えたい。