更新:2020/07/06
更新:2020/07/06
作成:2011/05/24
魏志倭人伝の国々
通称「魏志倭人伝」は、正確には「魏書(志)東夷伝倭人条」という。三国志の一部を成す魏書のそのまた一部である。
三国志は、蜀の旧臣で後に西晋に仕えた陳寿によって西暦285年頃に書かれ、陳寿の死後正史として扱われるようになった。魏・呉・蜀三国の時代を扱うほぼ同時代の歴史書としては、王沈(おうしん)の「魏書」と魚豢(ぎょかん)の「魏略」がある。
王沈は陳寿にとって一世代前の人であり(西暦266年没)、魚豢が書いた「魏略」の成立は「三国志」とほぼ同時、或いは数年先立つらしい。「魏略」と「三国志」は、邪馬台国への道順についてよく似た部分がある。陳寿が「魏略」そのものを読んでいたか、共通の資料があったのであろう。
范曄(はんよう)が書いた「後漢書」にも倭国への言及があり、魏志倭人伝と似た記述があるが、相反する部分もある。「後漢書」は、扱っている時代こそ三国時代に先立つ後漢であっても、成立は西暦422年と、陳寿の三国志よりも逆に約140年遅い。したがって、范曄は、魏志倭人伝の記事を利用することも批判することもできる立場にあった。注目すべきことに、後漢書に「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」とある。范曄は、狗奴国は邪馬台国よりも東にあると認識していたのである(拘奴国=狗奴国と思われる)。
さて、魏志倭人伝に話を戻すと、古来多くの人が魏志倭人伝に記述された30ヶ国の比定に挑戦しているが、研究者の間でほぼ同意ができているのは未だ数ヶ国にすぎない。すなわち、
- 狗邪韓国(朝鮮半島側)
- 対海国(対馬国)
- 一大国(壱岐国)
- 末盧国
である。
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上記4ヶ国に続く伊都国から意見が分かれ始める。投馬国からは比定地は北九州の範囲に収まらない。
- 伊都国:筑前国怡土郡(糸島市前原地区)、吉野ヶ里など。
- 投馬国:宇佐地方、西都市都万神社周辺、出雲、備前の鞆など。
- 邪馬台国:説が多すぎて書ききれないが、朝倉市甘木、筑前国山門郡、日向国、大和国纏向遺跡が有力。
余旁遠絶ながら女王国(倭国連合?)に属する 1.斯馬国、2.己百支国、3.伊邪国、4.都支国、5.彌奴国、6.好古都国、7.不呼国、8.姐奴国、9.對蘇国、10.蘇奴国、11.呼邑国、12.華奴蘇奴国、13.鬼国、14.爲吾国、15.鬼奴国、16.邪馬国、17.躬臣国、18.巴利国、19.支惟国、20.烏奴国、21.奴国、女王国に属さず卑弥呼に敵対する狗奴国は、九州説、大和説入り乱れ、百家争鳴状態である。
このような状況になった原因は、大きく分けて7つあると思われる。
- 魏志倭人伝は、既に原本が存在しない。有名な紹興本にしても、12世紀に書写されたものであって、国名誤写の可能性を考えなければならない。例えば、紹興本以降には邪馬壹(壱)国という記述があるが、後漢書など12世紀までの正史には邪馬臺(台)国と書かれているから、原本では「邪馬臺国」であった可能性が高い。
- 陳寿がどの資料を魏志倭人伝のどの部分に引用したかがわからない。数十年の時代差は、風俗の記述には問題がないであろうが、政治情勢に関しては大変動をもたらしている可能性がある。
- 距離の単位「里」が、魏晋里(300~400m)なのか短里(70~80m)なのか、また陳寿が正しく考証したのかどうか不明である。
- 所要日数で記された距離は、帯方郡や公孫氏など中国側役人・軍人が調べたのか、倭人外交使節の申告をそのまま採用したのか、或いは陳寿が独自に商人や漁民などから聞き取り調査したのかが不明である。
- 方角をどういう風に調べたのか不明である。太陽を見ての目分量? だいたいの印象? 日の出の方向と日の入りの方向の真ん中を基準(南)とし、他の方角を当てはめた? 通訳が「太陽の出る方向」を「東」と誤訳し、右回りに90度異なる方角を「南」とした?
- 船の舳先の向きと進む方向を混同した可能性がある。言うまでもなく対馬海峡には南西から北東に向かって対馬海流が流れているので、海流を考慮して舳先の向きを決めなければ、南に行こうとしても南東や東に行ってしまう。果たして陳寿は対馬海流を知っていたのであろうか?
- 倭の諸国の国名を漢字で表記するにあたって、上古音と中古音のどちらが使われたのか、或いは国によってケース・バイ・ケースなのかが不明である。魏志倭人伝の時代は、上古音と中古音の過渡期にあたっているので判断が難しい。しかも、倭人は文化的に呉越の系統を引いているので、北方方言が話されたと見られる「魏」との方言差をも考慮しなければならない。
倭の30国の比定がこのように混沌としている中、安本美典氏は、勉誠出版「『倭人語』の研究」で、
- 倭人伝の国名、人名には卑字が使われているという説があるが、尾崎雄二郎氏が主張するように単に同音グループの最も頻度の高い字(専門的には「同韻首字」と言う)、或いは準首字が使われているに過ぎない。
- 奈良時代以前の日本語には8母音あったという日本語上代特殊仮名遣い研究の成果を尊重しなければならない。
- 延喜式の九州の郡名の60%近くが千年以上の歳月に耐えて生き残っていることから、魏志倭人伝の国名もかなり生き残っている可能性が高い。
と主張する。また、日本の中国語学者数名の著作を引用した上で、「万葉仮名の読み方」として次のような原則を提唱している。
- 万葉仮名で読める字は万葉仮名で読む。
- 万葉仮名で用いられた事例の存在しない漢字は、その漢字の上古音、または、中古音と同じ音(語頭子音と母音)をもつ万葉仮名で読む。
- 上古音で読むべきか、中古音で読むべきかは、どちらかに限定せず、更に研究を進めるべきである。
更に、「末尾子音活用の読法」と「子音重複の表記法」を提唱する。こういった研究と古代日本語音韻研究の結果として、安本氏は、
- 「一支」「末盧」「奴」の読み方は、上古音による「いき」「まつら」「な」である。
- 「伊都」「不弥」の読み方は、中古音による「いと」「ふみ」である。
- 姐奴国、蘇奴国などの「奴」の音価は、上古音で「nag」、中古音で「no」であるが、助詞の「の」を意味してる。
- 「蘇奴国」の読み方は「さがなこく」、「対馬国」は「つしまこく」、「好古都国」は「おかだこく」である。
と主張し、戸数についての考察と合わせて次のように比定している。
国名 | 比定地 | 国名 | 比定地 |
---|---|---|---|
狗邪韓国 | 韓国金海付近 | 対馬国 | 対馬国 |
一支国 | 壱岐国 | 末盧国 | 肥前国松浦郡 |
伊都国 | 筑前国怡土郡 | 奴国(二万余戸) | 筑前国那珂郡 |
不弥国 | 筑前国糟屋郡宇美町 | 蘇奴国 | 肥前国佐嘉郡 |
好古都国 | 筑紫国岡田 | 邪馬台国 | 総称。筑後川流域。宮殿は朝倉・甘木か |
投馬国 | 遠賀川流域から豊前国 (「あづま」の意味) |
邪馬国 | 筑後国八女郡 肥後国山鹿郡 |
鬼国 | 肥前国基肄郡 | 鬼奴国 | 豊前国御木郡 |
華奴蘇奴国 | 肥前国神埼郡 (吉野ヶ里) |
呼邑国 | 肥前国小城郡 |
弥奴国 | 筑後国御井郡 | 斯馬国 | 筑前国志麻郡 |
已百支国 | 有力地名なし | 伊邪国 | 伊予国 |
都支国 | 筑紫野市筑紫 | 不呼国 | 浮羽? |
姐奴国 | 筑後国竹野郡 | 対蘇国 | 肥前国養父郡鳥栖郷 |
為吾国 | 有力地名なし | 躬臣国 | 筑前国席田郡久爾駅 |
巴利国 | 筑前国上座郡把伎(はぎ)駅 | 烏奴国 | 長門国穴門(あなと) |
支惟国 | 豊前国企救郡 | 奴国(2つめ) | 日向国那珂郡 |
狗奴国 | 肥後国菊池郡 (菊池=くくち) |
安本氏の読み方には私もなるほどと思うが、個々の比定については必ずしも同意見というわけではない。私は魏志倭人伝が西暦247年頃の卑弥呼の死後、特に西暦267年の台与の朝貢後から魏志の執筆までの倭の政治情勢をも反映していると考えるからである。したがって、無理に比定の範囲を九州北半分に限定する必要はなく、中国地方や四国、場合によっては伊勢湾沿岸や能登半島付近までから候補を選んで良いのではないかと思う。
また、池橋宏氏が「稲作の起源」(講談社選書メチエ)で指摘しているように、中国江南の稲作民の伝統を受け継ぐ人々なら河川交通を重視するはずである。弥生時代には河川の流域単位で植民が行われたに違いなく、植民の際は、特別な理由がない限り、河口よりもやや内陸の水害の少ない盆地や支流沿いが好まれたのではないだろうか? したがって弥生時代の国も河川の流域単位が基本になるはずである。
他に思いついたことがあるが、別のページとして紹介したい。
→ 「魏志倭人伝の国々2」のページへ