中国語の3大センター
更新:2024/02/27|作成:2015/02/20
中国語の方言
中国語には数多くの方言が存在する。いくつの方言グループに分類するかは学者によって諸説紛々としているが、最も有力なのは七大方言への分類であり、ウィキペディアの「中国語」の項目も七大方言説を最初に紹介している。
- 北方語(普通話など官話系)
- 呉語(上海語など)
- 粤(エツ)語(広東語など)
- 閩(ビン)語(福建語・台湾語など)
- 贛(カン)語(南昌語など)
- 湘語(長沙語など)
- 客家(ハッカ)語
十大方言に分ける場合は、次の3方言を追加する。
- 晋語(七大方言では北方語に属する)
- 徽(キ)語(七大方言では呉語に属する)
- 平話(七大方言では粤語に属する)
方言といっても、中国語の七大方言、或いは十大方言で言う「方言」は、使用者の人口や口語での相互理解困難性から考えて、インド・ヨーロッパ語族の各言語に相当する。
現在の中国語の標準語は、北方語の語彙と北京方言の発音、近代文学の文法から作られた普通話であり、官話の系統に属するが、南東部を除く中国の大部分に分布している。北方語以外の諸方言は中国の南東部に集中している。
言語学には方言周圏論という法則、或いは仮説がある。中央では新しい言葉が次々と生まれる一方、古い方言ほど中央から遠い地域に分布するという現象である。しかし、中国語が黄河中下流域、いわゆる中原で生まれたと考えると、中国語諸方言の分布のしかたは、方言周圏論と矛盾する。北方語は、まるで比較的短期間で広まったアメリカ英語のように、分布領域の広さに比べて内部差異が小さいのである。
矛盾解決のための仮説
この矛盾を解決するには、黄河文明が4~5000年前に生まれる前、中国語の分布の中心が江南地方、すなわち江蘇省や浙江省あたりにあったと仮定するしかないであろう。実際、河姆渡遺跡は1970年代から知られ、更に20世紀末には長江中下流域で1万年以上の過去に遡る長江文明の遺跡群が発掘されている。
徐朝龍氏を中心とする長江文明の発掘調査の成果は凄まじく、それまでの中国文明=黄河文明という常識を覆したが、私にとっては残念な点もある。徐氏が考古学から実業界に転身してしまったこと、杭州湾の発掘が行われていないことである。もっとも、海面下の遺跡調査は、現代の科学技術をもってしても手に余るであろう。
私の考えを図にすると次のようになる。
約7万年前に始まり、約 12,000 年前に終了したヴュルム氷期極大期(21,000~18,000年前)、海水面は現在よりも 120~130 メートル低く、現在の東シナ海の西側3分の2は陸であった。氷河期と言っても、緯度は本州よりも南なので、恐らく現在の本州に似た気候であったろうから、無人であったはずはない。むしろ、文明が発生する条件を備えていた(仮説的「東シナ海文明」)。稲の栽培が始まったのも、この時期・地域かも知れない。一方、氷河期が終わるまでの黄河中流域は、乾燥冷涼な気候だったので居住困難であった。
中国文明中心地の変遷
以下は私が考える氷河期終了後の中国文明中心地の変遷である。
- 500~1000年くらいで上昇した気温に比べるとずっとゆっくりとだが、北アメリカ大陸や北欧を中心とした巨大氷床が3000年くらいの時間をかけて融け、海水面が上昇してくると、「東シナ海文明」は次第に水没していった。人々は沈まない土地を求めて四方八方へ移住した。気候的にも、北緯30度よりも36度の方が快適であったろう。
- 最大の移住先は、歩いたり川船に乗ったりして行ける長江流域や現在の江南地方であったと思われるが(長江文明)、どこまで内陸に行ったら安全かは誰にもわからなかったに違いない。
- 一方北西方向に移住したグループの子孫は、彩陶で有名な仰韶(Yangshao)文化(シルクロードを東進してきた文化との接触で生まれた?)や黒陶で有名な龍山(Longshan)文化を築く。龍山文化人の子孫はやがて東夷と呼ばれるようになる。
- 当時幅200km程度と狭かった東シナ海の沿岸に住んでいた人びとは、舟さえあれば沖を流れる日本海流に乗って南九州に移住するのも容易であった。このグループの子孫が、後に上野原遺跡と呼ばれる集落を作ったのであろう。関東地方の縄文遺跡は二次移住先であるのかも知れない。
- 現在から7000~5000年前は、世界的にはヒプシサーマル期、日本では縄文海進期と呼ばれ、現在よりも年平均気温が2℃ほど高く、海水面も数メートル高かった。ヒプシサーマル期は「気候好適期」とも呼ばれるが、気候が好適であったのはヨーロッパ大陸にとっての話である。暑すぎる気候と海水面の上昇は、長江文明を次第に衰弱させていく。大規模な洪水が襲うこともあったに違いない。
- 江南の風土に見切りをつけた一部のグループが、黄河中・下流域を移住する。龍山文化人の協力があったのかも知れない。後にこの地域が大いに発展して「中原(ちゅうげん)」となる。
- 紀元前2000年頃から「中原」には「二里頭遺跡」に代表される文化が栄えていたが、これが「史記」に書かれた「夏」王朝であるかどうかは議論が分かれる。
- 紀元前1700年頃に東夷出身とも言われる「商(殷)」の湯王が「夏」を滅ぼす。その時の都は亳(現在の商丘)であったが、初期に鄭州あたりに遷都し、滅亡時は殷墟が都であった。商人は漢字の元となる甲骨文字を発明し、盛んに亀卜占いを行った。また、暖かい岩礁や珊瑚礁を好む子安貝(タカラガイ)が貨幣や装飾品として利用された。威信財として王から貴族に、更に家臣へと下賜されたという説もある。沖縄諸島が産地だったのかも知れない。
- 紀元前1000年頃殷周革命が起き、都は現在の西安市近郊の豊邑(豊京)、後に豊河対岸の鎬京に首都が置かれたが(西周)、犬戎に追われて中原の洛陽に遷都した(東周)。東周は最初から権威はあっても実力を伴わない弱体政権であったが、諸侯に蚕食されてついに消滅、戦国時代を迎える。
- 紀元前200年頃、始皇帝が中国を統一した時の秦の首都は、現在の西安の西にある咸陽であったが、秦は三代で滅んだ。劉邦が漢王朝(前漢)を築くと、長安(現在の西安)に首都が築かれた。
- 王莽による皇位簒奪を経て劉秀が開いた後漢になると、首都は中原の洛陽に移る。
- 三国志で有名な魏・蜀・呉の三国時代の後、魏王朝の遺産を継いだ司馬氏が統一王朝を樹立する(西晋)。しかし長続きせずに滅亡、皇族の一部が江南の建業(=建康、現在の南京)に脱出して建国する(東晋)。
- 西暦420年に東晋が滅亡すると、中国南部では建業を首都として6つの王朝が数十年おきに交替する(「六朝(りくちょう)」)一方、中国北部は匈奴などの異民族に支配される。
- 6世紀末、中国は楊堅によって統一(随)されるも2代で事実上滅び、李淵が唐王朝を樹立する。随・唐時代の首都は長安(現在の西安)であった。
- 西暦907年の唐滅亡から960年の北宋成立までは、華北には5つの王朝がめまぐるしく興亡し(五代)、華中・華南は群雄割拠状態となった(十国)。
- 趙匡胤によって開かれた宋王朝(北宋)は、荒廃した長安・洛陽を避けて開封を首都とした。1127年、契丹族の遼に華北を奪われた宋は、臨安(現在の杭州)に遷都した(南宋)。
- 南宋は、女真族の金に圧迫されていたが、その間に新たに勃興してきたモンゴル族に1276年に滅ぼされた。モンゴル族は大都(現在の北京)を首都として元を建国した。
- 1368年に朱元璋が南京を首都として建国した明王朝であったが、クーデターで甥から帝位を奪った第3代永楽帝は、根拠地であった北京に遷都した。
- 満州族の愛新覚羅氏は、17世紀前半に明を滅ぼして清を建国した。首都は明時代と同じく北京。
- 1912年に清王朝を打倒して中華民国が建国されたが、その中華民国も1949年に共産党の人民解放軍に追われて台湾に避難した。共産党政府による中華人民共和国も北京を首都としている。北京は、元王朝以来約700年のほとんどの間、中国の首都の地位を保っている。
漢字の「NJR型」と「MBR型」
こうして見ると、中国語の中心は、洛陽や開封など黄河中流域の中原、西安や咸陽などの関中盆地、南京や杭州などの江南の3つの地域の間で移動していることがわかる。北京は、元王朝以来約700年のほとんどにわたって首都として栄えているが、位置としては漢民族の領域の北東のはずれにある。そのため、北京方言は東北部の異民族の言語の影響を受けているらしいが、それでも中原の発音の子孫と見なして良いだろう。
そこで思いついたのが、「NJR型」漢字という概念。「人」という字の発音を例にすると、仏教用語に多い呉音では他人の「にん」、遣隋使や遣唐使が持ち帰った漢音では「じん」、普通話では「rén」となる。「日(にち、じつ、rì)」「然(ねん、ぜん、rán)」「如(にょ、じょ、rú)」「若(にゃ、じゃく、ruò)」「弱(にゃく、じゃく、ruò)」なども当てはまる。児(に、じ、ér)もNJR型の漢字といって良いだろう。
「日」について蛇足を言えば、中国東北部の方言では「r」の発音が非常に弱くなり(家内に言わせると、瀋陽出身の自分の母親は「r」を正しく発音できない)、現代韓国語ではついに「r」が消失して「il」(韓国語では中国中古音の「t」が規則的に「l」になる)となることもわかっている。もしかしたら「昼」の訓読み「ひる」は、古い韓国語の「il」が変化したものかも知れない。
また、MBW型もある。例えば「未」の場合、呉音は「み」、漢音は「び」、普通話では「wèi」である。このグループには、「尾」や「微」「媚」などが属する。専門家であれば、上記2つに限らず、いくつも類型を作ることが出来るであろう。
このように漢字音(呉音、漢音、普通話)を時系列的な変化としてだけでなく、地域的な特徴としても捉えていけば、ひょっとしたらグリムの法則に相当するものが中国語の中で見つかるのではないだろうか?