更新:2020/07/04
更新:2020/07/04
作成:2012/08/13
弥生時代の日本列島
日本は、ユーラシア大陸の東にある弧状列島である(右の Google Earth を加工した図を参照)。
南には、地球上で有数の暖流である日本海流(黒潮)が流れ、北海道・東北地方の沖には北から親潮(千島海流)が南下している。
日本海流は、フィリピン諸島の東で生まれ、台湾と八重山列島の間で東シナ海に入り、屋久島の南で南西諸島を横断する。そしてしばらく日本列島太平洋岸と平行して流れ、銚子沖で親潮と衝突して方向を変え、太平洋の真ん中に向かう(一部は反転して南西諸島方向に向かう)。
対馬海流は、屋久島の西で日本海流から北に分岐し、対馬海峡を通って日本海を縦断する。日本の気象、更にはその結果である植生を考えるとき、この2つの暖流の影響を無視することはできない。
最終氷期であるヴュルム氷期が約1万2千年前に終わると、暖かな対馬海流が日本海に流入するようになった。冬季に水蒸気が供給されて日本列島の日本海側に大量の雪をもたらし、山地に積もった雪は、春から夏の間に徐々に溶けて、新潟県や秋田県、山形県などの水田を潤している。
小山修三元国立民族学博物館教授の研究によると、弥生時代に先立つ縄文時代の早期から中期にかけて、日本列島の人口は極端な東高西低であったらしい。例えば中期には、推定総人口26万人強(北海道と沖縄を除く)に対し、近畿以西の人口は、1万人以下であったという推定である。
しかし、晩期(約2900年前)には、関東~東海・北陸で人口崩壊が起きて中期の数分の1に減ったのに対して、もともと人口の少なかった西日本では、半減程度で済んでいる。その結果、4万人弱の東北を除くと、関東、北陸、中部、東海、九州の人口は、5千人台~7千人台と、どんぐりの背比べになった。ちなみに近畿、中国地方では、それぞれ2100人、2000人と少ない。
このような人口激減が生じた原因は、
- 縄文早期から中期には日本列島の温暖化が進み、植生も自然の幸の豊富なブナ林が北に後退する一方、自然の幸の乏しい照葉樹林が東進していった。
- 縄文時代といえども純粋な狩猟・採集経済ではなく、クリや根菜類などの食用植物を保護・育成することによって自然の幸の減少に対処したが、縄文後期以降に小氷期が訪れて気候が悪化すると、食料の減少に対処しきれなくなった。
と考えられる。弥生時代に突入する前の関東~九州の人口は、ひっくるめても東北とほぼ同じというほとんど空き家状態であったのである。
しかし、弥生時代になると状況が一変する。西暦200年頃には、人口10万人前後の地方が、関東、中部(岐阜、長野、山梨)、近畿、九州と4つ出現し、東海と中国も6万人弱の人口を擁するようになった。言うまでもなく、稲作を伴って渡来した弥生文化人(Y染色体ハプログループ「Ob2」)が、土着の縄文文化人と混血しながら拡散したからである。
弥生文化人の故郷は中国の江南、昔の呉越のあった地方であるが、渡来ルートについては、いくつかの説がある。
- 江南→山東半島→朝鮮半島南部→北九州
- 江南→渤海湾沿岸→朝鮮半島→北九州
- 江南→東シナ海横断→九州西岸
- 江南→沖縄列島→南九州
1.と 2.のルートは、中国の戦国時代に越人の勢力が北進していたこと、楚に敗れた越人が四散し、一部は東に逃げたと見られることを根拠としている。
3.のルートは、戦いに敗れた呉人や越人が、命からがら舟に乗り、海流を利用して九州西岸に逃げたと思われるルートである。数日分の食料と水を積み込んで東に向かい、天気に恵まれれば、無事倭国に着いたことだろう。その舟が外洋船であるかどうかなどと贅沢を言ってはいられない。敵に殺されるよりはましである。しかし、正直に真東に向かったのだろうか? むしろ大陸東岸を流れる弱い海流を利用して台湾の北まで南下し、そこで進路を東に変えて尖閣諸島あたりで黒潮(日本海流)に乗り、屋久島が見えたら黒潮から離脱して北の九州に向かった方が労力が少なく、安全なように思える。
4.のルートは、民俗学者の柳田国男が唱えた説であるが、黒潮を乗り越えて更に約200km東に行かなければ沖縄列島に着けないこと、屋久島の南で再び黒潮本流を乗り越えなければならないことが難点となる上、江南から九州に直行するのとほぼ同じ距離を南東の沖縄に向かい、更に又同じ距離を島伝いに進むのは不合理である。しかも2度目の黒潮越えに失敗したら、太平洋の真ん中に流されてしまう。
上記以外としては、
- 徐福伝説がかなりの事実を含んでいる可能性
- 中国の周時代以降、滅ぼされた国々の遺民が東方に新天地を求めた可能性
がある。この場合も一旦大陸東岸を南下してから黒潮を利用したのではないかと考えられる。
徐福は秦の始皇帝と同時代であるから紀元前3世紀の人物である。伝説が事実であるなら、3000人もの童男童女、各種職人と十分な食料・装備を伴っていたのだから、定着に成功すれば「国」さえ作れる規模である。それにしても日本の各地に徐福伝説が残っているのは何故なのだろうか?
さて、この人口急増は、弥生文化人が稲作と共に渡来したことでもたらされたことはもちろんであるが、九州への初期の定着にあたっては漁民の協力が不可欠だったのではないかと思われる。記紀でも火遠理命(彦火火出見尊)は海神の娘である豊玉毘売(豊玉姫)と結婚し、鵜葺草葺不合命をもうけている。
パワーシャベルのある現代と違い、開墾は数年間という長い時間のかかる大変な作業であったに違いない。しかも数十人~数百人、或いはそれ以上の人員の共同作業である。母村からの補給物資・食料輸送の問題もある。狩猟・採集生活をおくる数十人の部族が食料を十分に持たない移住者を受け入れたらたちまち食糧不足になってしまうが、漁民であれば、新移住者を新たな労働力として受け入れ、より多くの魚を獲ればよいからである。米などの穀物や野菜、根菜類が十分とれるようになってからも、農民と漁民は補完関係にある。そう考えると漁民は協力相手として理想的である。
弥生移民の初期コロニーは九州の漁村だったであろう。種子島の広田遺跡も、九州島そのものではないが、有力な候補である。なにしろすぐ南を黒潮本流が流れているので、東シナ海で難破した船が漂着しやすい。遥か後世のことであるが、鉄砲もこうして種子島に伝わった。
それはさておき、漁村は稲作民の最終的な定着地にはならない。やはり稲作適地を求めて各地に偵察隊を出したに違いない。古事記の国生みの部分を読むと、南から日本列島を見ているような気がするのである。西日本、特に九州西岸や中国地方の日本海沿岸に多く見られる「○○鼻」という岬の名前や「川内」「千代」「河内」という地名は当時の偵察活動の名残であろうか?
画像をクリックすると新規タブを開いて西日本を中心に Google MAP を地形表示。
稲作適地であるかどうかは、河口から川を遡上して調べる。関東以西の平野や盆地なら植生が中国の江南に似ているという点は満たしているが、「平原広沢」、つまり水に恵まれた平野・盆地が適地である。
ただし、現在の大都市とは必ずしも一致しないことに気をつける必要がある。現代は遠浅の海を埋め立てて住宅地や工業用地にしていることも多いからである。他に海からの植民活動の障害になったと思われるものを列挙すると、次のようになる。
- 瀬戸内海の複雑な潮流→ 海上保安庁「潮流推算(推算海域:瀬戸内沿岸)」のページ
- 鳴門海峡と明石海峡の速い潮流
- 有明海・八代海の大きな干満差
鳴門海峡や明石海峡では、天候が悪いと現代でも海難事故が発生する。瀬戸内海の航海上の問題を考えると、船が安全に九州から大阪湾まで航行できるようになるのは意外に遅かったのではないかと考えられる。弥生時代は、塩椎神のような潮流を熟知した水先案内人が得られない限り、黒潮を利用して南九州 → 四国沖 → 大阪湾という航路の方が主流だったのかも知れない。
日本海側では、やはり出雲地方が注目される。山陰地方最大の平野として、稲作適地だからである。弥生時代の早い時期に植民され、やがて多くの子植民地、孫植民地を持つようになったことが日本神話の中で大国主神の活躍に投影されているに違いない。ただし、周辺に大きな後背地を持てなかったため、行政組織を持った「国」としてはあまり大きくなれず、結局天孫族に国譲りすることになったのではないだろうか?
逆に遠くても関東地方の霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼周辺は、意外に植民が早かったかも知れない。当時これらの湖は、汽水の香取海を構成し、豊富な魚介類に恵まれていた。また、銚子沖は、黒潮と親潮がぶつかるので、日本有数の好漁場である。航海術としても、西日本から来る場合、黒潮を利用して伊豆諸島の海域に到達し、島を見つけたら方向を北に向け、島伝いに本州に向かえばよい。中臣氏(藤原氏)の根拠地が常総地方であること、出雲国譲りの際の強力な武神である建御雷神が当時の「香取海」東岸の鹿島神宮に、経津主神が南岸の香取神宮に祀られていることも何か曰くがありそうである。大和朝廷に服属していなかった頃の毛野の臣を威圧していたのだろうか?
もうひとつの隠れた植民適地は、宮崎県南部で大淀川の流域にある都城盆地である。ここには縄文時代晩期(弥生早期)から近世にかけての稲作遺跡がある。「都城(みやこのじょう)」という地名は島津氏一族の北郷義久が1375年に現在の都城市都島町に築いた「都城」に因むが、その前は11世紀前半に設けられた西日本最大の荘園「島津荘」であった。
「魏志倭人伝の国々」のページにも書いたように、私はこの地域が「都支(上古音「tag-kieg」)国」であったであろうと推定している。「kieg」の部分が「邑」(現代中国語 pinyin で「yi」)と同根であったら......。子音に注目すると、中国で起きた「g」→「y」の変化に対して、「g」→「k」という変化が弥生時代の日本で起きたとしたら、「都支」は本来「都邑」であったことになる。まさに「都城」と同意であるが、魏志倭人伝の時代には既に古都になっていて、伊都国に来た後漢や魏の役人たちは由縁に気がつかなかったのだろう。
※現在の千葉県・茨城県境にあった「香取海」が江戸時代まで存在していたことを丸地三郎様に教えていたいたため、関連部分を修正しました(2012/08/13)。