徐福と焦庄
最終更新:2024/04/18
作成:2022/04/09
最近中国江蘇省連雲港市の焦庄(しょうしょう。拼音で Jiāozhuāng)遺跡が話題になっている。焦庄遺跡と徐福伝説の主人公である徐福のルーツ、更には弥生系渡来人の故郷が関係ありそうなので調べてみた。
徐福は徐巿とも呼ばれるが、「巿」は「市(いち)」とは別の字であり、上の部分がなべぶた「亠」ではなくて縦棒が上に突き抜けている。
百度百科の徐福の項目によると、徐福村のある連雲港市贛楡区の資料では、
徐福、字は君房。斉地琅琊郡(現在の江蘇連雲港市赣榆区金山鎮徐福村)の人で、秦代の有名な方士。鬼谷子先生の最後の弟子と伝えられる。博学多才であり、医学、天文、航海に通暁し、沿岸一帯の人々の間で甚だ名望が高かった。
と紹介されているらしい(原文は中国語)。鬼谷子は戦国時代の諸子百家の一人であり、その著書でもあるが、非実在説もある。
百度百科の「徐姓」の項目によると徐姓の起原は3つあるという。
- 贏姓起原:少昊や顓頊を遠祖とし、国名を氏とした集団。徐若木が始祖となっている。
- 子姓起原:周王朝初期、周公旦は殷侯武庚と三監の反乱を平定し、殷商遺民の6氏族を魯公に与えたが、その中に徐氏族があった。
- 異民族起原:氐族、モンゴル族、百済扶余系朝鮮族、満州族で徐に改姓するものがあった。
徐福の家系は、戦国時代の趙王家、秦王家と同じく贏姓で、遠祖は顓頊に遡る。
盤古 ─ 燧人氏(風姓)----黄帝 ─ 昌意 ─ 顓頊(高陽氏)─(4代)─ 鯀(姒姓)─
禹(夏朝の創始者)----女脩(女性)─ 大業
─ 伯益(贏姓)┬ 大廉(→趙王家、秦王家)
└ 若木(→夏王朝徐国)----偃王----
顓頊は五帝の一人で、黄帝の後を継いで帝位に就いた。黄帝の子か孫に少昊がいることになっているが、顓頊とどう繋がるのかわからない。
禹は、父である鯀が果たせなかった治水に成功し、その功績により舜の指名で帝位を継いだ。浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。中国では治水の英雄・開拓の英雄とされている。
女脩と禹の関係は史書によってかなり異なる。「史記」秦本紀では女脩は顓頊の孫娘であるとする。玄鳥(ツバメの異名)の卵を飲んで身ごもり、大業を生んだことになっている。
大業の子伯益は、帝舜と帝禹を助けて治水を行い、贏姓を授けられた。益、大費などの別名もある。伯益の子として春秋・戦国時代の趙王室や秦王室に繋がる大廉と夏王朝徐国を建てる若木がいる。
若木については日本語でのウィキペディアの項目がないので、百度百科の項目を和訳して引用する。
夏王朝がまだ建国されていないとき、若木の父親伯益は、大禹を補佐して洪水に対処した。夏王朝建国後、若木もまた夏王朝君主を助けて水害に対処し、汗馬の功を立てた。そのため論功行賞時に子の若木が九州のひとつ「徐州」(現在の邳州、郯城一带)に封ぜられ、徐を建国した。後世の人は若木を徐若木と呼ぶ。子孫は国名を氏となし、徐氏と称した。徐若木は徐姓を得た始祖である。
徐は東夷諸国のひとつで、徐戎や徐夷、徐方、舒とも称される。勢力範囲は、右の地図の黄色い楕円の位置となろう。江蘇省、山東省、安徽省の境界地域であり、秦・漢代には琅琊郡であった。X のマーカーが郯城、R が秦代に琅琊郡治が置かれた琅琊県(現在の青島市黄島区琅琊鎮)。西隣に徐州市があるが、こちらは本来は彭城であって、徐氏とはあまり関係がない。
なお、「九州」というのは、古代中国の東西と南北を3つずつに分割した世界観である。当然中央に天子の国があることになる。
1996 年から 1999 年にかけて実施された「夏商周年表プロジェクト」によると、夏王朝は紀元前 2,070 年頃から紀元前 1,600 年頃までの約 470 年間続いたらしい。
徐若木から32世後の偃王が起こした反乱が鎮圧されて、徐国は一旦滅亡したが、その子の代に再興した。夏の滅亡後は、商(殷)・西周・春秋と存続したものの、楚に圧迫された末に紀元前 512 年に呉(姫姓)によって滅ぼされた。徐国滅亡後の徐氏は、秦代になる前に安徽省、河南省、山東省方面に移住し、秦・漢代になると今度は大規模に南遷したという。
現在、「徐」は大陸中国で11番目に多い名字で、総人口は 2,000 万人に近い。41% は江蘇省、広東省、浙江省、四川省の4省に分布し、30% は山東省、江西省、安徽省、河南省、湖北省の5省に分布する。
さて、問題は戦国時代末から秦代の状況である。
- 徐は紀元前 512 年に呉によって滅ぼされた。
- 呉は紀元前 473 年に越によって滅ぼされた。
- 越も紀元前 306 年に楚によって滅ぼされた。
- 楚も紀元前 223 年に秦によって滅ぼされた。
- 紀元前 219 年、徐福第1回出航。
- 紀元前 210 年、徐福第2回出航。
- 秦も始皇帝の崩御後動乱が起きて滅び、紀元前 206 年に劉邦の漢(前漢)が成立した。
前述のように、徐国の滅亡後徐氏は南以外の方角に避難した。南の呉から攻撃されたので当然である。しかし秦による中国統一までの約 290 年間には新たな居住地で一息ついたであろう。一方始皇帝嬴政は、山東省の泰山で封禅を行おうと考えたが、封禅のやり方知っている者がいなかったので、知っている者を求めて調査する過程で徐福一族を発見したのであろう。
徐福はそれを逆手に取って、新天地である倭への脱出を企てたのかも知れない。始皇帝は始皇帝で徐福の意図を見抜いていて、頃合いを見て徐福が築いた新天地を征服しようと考えたのかも知れない。
ともあれ紀元前 219 年に、始皇帝は泰山で封禅を行い、徐福は童男童女 3,000 人と百工を連れて東の海に出航したが、徐福にも始皇帝にも誤算があった。
さて、問題の遺跡2つであるが、
- 徐福村(連雲港市贛楡区金山鎮):徐福に関する言い伝えもある。同区柘汪鎮の大王坊村では秦時代の造船所遺跡が見つかり、多数の船材が出土している。
- 焦庄遺跡(連雲港市東海県焦庄):吉野ヶ里など佐賀平野~筑後平野の弥生遺跡で出土する短粒米(朝鮮半島や福岡平野に広がっていた極短粒米と置き換わった)と DNA 型が一致するので、丸地三郎氏等が主張するように、佐賀平野~筑後平野の弥生系渡来人の故郷が焦庄遺跡周辺だったのではないかと思われる。
- Z:長安=西安 34.267292,108.947596
- L:洛陽 34.6164900,112.454180
- C:臨淄(りんし、斉の都) 36.820301,118.304694
- Q:曲阜(魯の都) 35.596140,116.991650
- R:琅琊郡治(青島市黄島区琅琊鎮) 35.687239,119.857782
- X:徐(山東省臨沂市郯城県) 34.616104,118.346248
- Y:郢(えい=楚の都、楚紀南故城) 30.421016,112.177233
- S:蘇州(呉の都) 31.307767,120.626747
- H:会稽(=紹興、越の都) 29.997985,120.587216
- J:焦庄遺跡(連雲港市東海県焦庄) 34.542378,118.753027
- F:徐福村(連雲港市贛楡区金山鎮) 35.002169,119.079058
- 地名の下の数字は、Google Map から取得した緯度と経度の少数点7位を四捨五入したもの。
焦庄遺跡と弥生遺跡から出土する米の DNA が一致することは、中国ではまだ専門の学者以外にはあまり知られていないらしく、通常の Google 検索では連雲港市のどの辺かわからなかったので、Google マップで山東省・江蘇省・安徽省境界地域を拡大表示して「焦庄」で検索した。すると、目的の焦庄遺跡以外に「焦庄」という地名がいくつも見つかった。それを数字でプロットしたのが下の地図である。
- 1:江蘇省連雲港市連雲区 焦庄 34.685295,119.339450
- 2:江蘇省徐州新沂市 焦庄村 34.134692,118.341533
- 3:江蘇省徐州賈汪区 焦庄村 34.433153,117.521720
- 4:江蘇省宿遷市宿豫区 焦庄 34.113844,118.036314
- 5:山東省臨沂市郯城県 焦庄村 34.494567,118.303747
- 6:山東省棗荘市市中区 焦庄村 34.869350,117.606458
- 7:山東省臨沂市蘭陵県 焦庄村 34.708471,118.109281
- X:徐(山東省臨沂市郯城県) 34.616104,118.346248
- F:徐福村(連雲港市贛楡区金山鎮) 35.002169,119.079058
- J:焦庄遺跡(江蘇省連雲港市東海県焦庄) 34.542378,118.753027
上の拡大地図に納まらなかったのでプロットしなかったが、
- 河南省周口市鹿邑県 焦庄村=33.795023,115.581884
- 山東省菏沢市定陶県 焦庄村=35.046018,115.409721
もある。なぜこんなに狭い地域に「焦庄」が集中するのだろうか? 少々ではなく、大いに怪しい、怪しすぎる......。
「焦庄」というのは木樵と炭焼きの村なのではないかと思われる。単に燃料としての薪にするのでは価値は低いが、製材して樹種に応じて建築材料や家具、船材にしたり木炭にすれば付加価値が高くなる。高温になる木炭は製鉄に使える......想像のしすぎだろうか? 樹木が伐採された後の土地は農地になる。木樵は開墾のためのスペシャリストでもある。
古代中国では戦国時代から石炭が利用されていた(Webページ「中国の製鉄技術史」)が、現代中国語での「焦」には石炭でつくるコークスという意味もある。
学研「新漢和大字典」による「焦」の発音の変遷(上古音(周~漢代)→中古音(南北朝~宋代。代表は隋唐音)→中世音韻→近代音)と小学館「日中辞典」での意味は次の通りである。
- 焦 jiāo(=現代中国語拼音): tsiŏg → tsiɛu → tsieu → tšiau
-
- 乾ききっている;焦げている.
- コークス.
- 焦る.じれる.
- 〈中医〉【主見出し】三焦=舌の下部から胸腔に沿って腹腔に至る部分.
- 〈物〉ジュール.
- 〈姓〉焦(しょう)・チアオ.
そこで高校の地理副教材として使われる帝国書院「新詳高等地図」で華北~華中の石炭産地の分布を調べてプロットしてみた。ついでに鉄、銅、金についてもプロットした。
郯城の北にある臨沂市の北東と南西に炭田がある。古代斉の都臨淄が含まれる淄博市の北東と南西には鉄鉱山がある。石炭をコークスにするのは近代にならないと不可能だったと思うが、石炭のままでも木炭よりも火力が強いので、製鉄に使ったのではないだろうか? それとも暖房に使っただけであろうか?
銅の産地としては、銅陵市(なんたる地名!)近くの2ヶ所、安慶市近くの1ヶ所、黄石市南西の1ヶ所と長江沿いが目立つ。また鉄鉱石は紹興市付近、南京市の南、武漢市近郊大冶市(なんたる地名!)の北にもある。なお、この地図の範囲ではないが、遼寧省には炭田や鉄鉱石鉱山がいくつもある。
郯城の「郯」という字は、「炎」と「阝(里)」から成る。近くには炭鉱や鉄鉱山があり、昔は木材も豊富であったろう。古くは木炭で、戦国時代には石炭を使ってこの一帯で製鉄が行われたのではないだろうか? 製鉄の煙が絶えなければ「郯城」の命名の由来になっても不思議はない。
蛇足であるが、郯城の特産品は「銀杏」である。佐賀県や福岡県をはじめ日本全国にはイチョウの巨木が何本もある。弥生系渡来人が故郷からイチョウの実を持ち込んだのかも知れない。誰か DNA を分析して比較してくれるとよいのだが......。