作成:2022/03/10
作成:2022/03/10
河内・川内・千代・Henei・Hanoi
以前から気になっていたのが日本各地にある河内(かわち、かわうち)、川内(かわうち、かわち、せんだい)という地名。河川が海に注ぐ少し手前の低地を指すようである。日本国内に限らず、中国やベトナムにもある。
1.河内(旧国名=かわち、現大阪府の一部)
古代、大阪市の海岸部は海であった。大阪城は細く北に延びる上町台地の北端にある。その東側が「河内湾」であったが、次第に堆積物で埋まっていって古墳時代までには「河内湖」となり、江戸時代には完全に干拓されて新田と化した。
薩摩川内(せんだい)市
川内川の河口から少し内陸に入ったところに川内平野があり、薩摩川内市の中心は海岸部ではなく、こちらである。
更に上流に行くと、伊佐市(旧大口市・菱刈町。旧郡名に因む)のある大口盆地。稲作や焼酎の醸造が盛んであり、そばに金や銅を産出する菱刈鉱山もある。
千代川(鳥取県鳥取市)
鳥取市の中心部を貫いて北流し、日本海に注ぐ千代(せんだい)川。海岸近くは河口を除いて鳥取砂丘なので、少し標高が高くなっている。マーカーは「千代水(ちよみ)」という町名を示している。
旧因幡国は現在の鳥取県の東部であり、因幡の白ウサギ(本当は「素兎」)の地元である。古代には物部氏の勢力圏であった。
ちなみに、宮城県仙台市も「せんだい」仲間と思われる。「仙臺(台)」という命名は、戦国武将伊達政宗によるものであるが、元の地名は「千代(せんだい)」だったとのこと。仙台駅周辺の地形は「せんだい」に相応しく、広瀬川の左岸(北東側)が広くなっている。
河内町(かわちまち、茨城県稲敷郡)
現在は河内町の南を利根川が流れているが、江戸時代に河川改修が行われるまでの利根川は江戸湾(東京湾)に注ぎ、ここには本来独立した河川であった鬼怒川が流れていた。河内町を含む利根川沿いの地域は、関東地方有数の米作地帯である。
縄文時代には、現在の霞ヶ浦、北浦だけでなく、鬼怒川や小貝川をかなり遡った結城市や筑西市のあたりまで、南は印旛沼や手賀沼まで全部繋がった古鬼怒湾という内湾であり、鹿島灘に開いていたらしい。古代には香取海(かとりのうみ)と呼ばれていた。鬼怒川の南岸に香取神宮、北に鹿島神宮がある。ちなみに香取神宮の主神は経津主(フツヌシ)神、鹿島神宮の主神は武甕槌(タケミカヅチ)大神と、大国主命を屈服させた強力な二神である。
河内郡(古代中国の郡名)
百度百科によると、
河内,是中国古代地区名,有广义狭义之分。广义泛指黄河中游北面的地区,约相当于今豫北地区。狭义则专指河内郡(今沁阳)
河内(Hènèi)とは中国古代の地域名であるが、広義と狭義の区別がある。広義には黄河中流北側の地域で、ほぼ現在の豫北地域に相当する。狭義にはもっぱら河内郡(現在の沁陽=Qìnyáng)を指す。
商(殷)王朝の首都殷墟は狭義「河内」北東部の安陽市にあった。その南に最後の首都とも言われ、周代の衛国の首都であった「朝歌」が立地する。河内は中原の肥沃な地域なので、古来係争の的となった。
上記のように河内は黄河文明の中心地域であった。商や周の伝統を受け継ぐ豪族ならば、別の地域に移住したとしてもこのような条件の土地を好んだであろう。
ハノイ(Hanoi=ベトナムの首都)
ベトナム語は系統的にはシナ・チベット語族やタイ・カダイ語族ではなく、オーストロアジア語族と言われるが、中国語の影響を多大に受けていて、ハノイ(ベトナム語表記「Hà Nội」)も中国語表記は「河内(Hènèi)」である。
例に漏れず、河川(ソンホン川=紅河)がつくった沖積平野に位置していて、ウィキペディアによると、7世紀以来ベトナムの中心都市となっている。