更新:2020/07/06
更新:2020/07/06
作成:2015/12/24
狗奴国=江の川流域(江の国)説
狗奴国とは、邪馬台国論争に興味のある人なら誰でも知っているように、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国と交戦した国である。読み方は「くなこく」が一般的であるが、それが正しいかどうかは不明。位置についても邪馬台国自体と同様諸説あるが、邪馬台国北九州説の立場からは狗奴国が熊襲の前身(球磨川流域)、或いは肥後国菊池郡であると考える人が多い。邪馬台国大和説の人は、熊野や濃尾平野、或いは遠く毛野国を狗奴国に比定している。しかし、私は先人とは異なる説を唱えたいと思う。すなわち狗奴国=江の川流域(「江の国」)説である。
「江の川(ごうのかわ)」とは、島根県江津(ごうつ)市で日本海に注ぐ中国地方最大の川である(下のグーグル・マップ参照)。流域は、大きな平野がないため農業生産力は高くないが、昭和初期までは中国地方の河川交通の大動脈であった。面白いことに、水源は島根・広島県境のずっと南東、安芸高田市や庄原市などの広島県東部(備後国)にある。
画像は Google MAP 地形表示での江の川流域。クリックすると別ウィンドウで Google MAP が起動してこの地域を表示ます。
この地域を狗奴国に比定した理由は次の通り。
- 三国志の著者陳寿が「狗奴国」の「奴」を「な」「の」「ど」「ぬ」のどれと読んだかわからないが(或いはそのどれでもなかったかも知れないが)、意味は「の」の意味であったと考えられるので、「狗奴国」が「江(「ご、ごう、こう」)の国」であっても不思議はない。なお、現代中国語で「狗」のピンインは「gou」である。
- 前述のように昭和初期以前は中国地方の交通の要衝であった。逆に言えばここを拠点とすれば西日本の交通を遮断することができた。伊都国のような通商国家(?)にとって、東西交通遮断は相当の打撃になったであろう。
- 三次市の南東のJR福塩線沿線には「甲奴(こうぬ)町」が存在した(平成の大合併により2004年に三次市の一部となった)。
- 1889年(明治22年)から2005年(平成17年)まで甲奴郡が存在した。最初は約30ヶ村、後に合併のため3町(甲奴町、惣領町、上下町)に統合。
- 瀬戸内海側には呉市が存在する。「呉」は「くれ」と読むが、音読みすれば「ご」であり、仮称「江の国」と関連があるかも知れない。更には、邪馬台国時代の倭国に呉人系と越人系という区別があって、江の川流域~呉市あたりが呉人の入植地であったのかも知れない。
- 三次市のある三次盆地は四隅突出型古墳発祥の地であり、広島県で最も古墳が密集する地域である。つまり、古代においては、三次盆地は現広島県の中心地であった。
- 中国地方には、しばしば都怒我阿羅斯等「ツヌガアラシト」や天之日矛・天日槍「アメノヒボコ」と同一視される牛頭天王(ごずてんのう)の伝説がある。また、広島市安佐北区に牛頭山があり、中国浙江省東部にもいくつか牛頭山がある。更に韓国の曽尸茂梨(ソシモリ)が韓国語で「牛頭」の意味だという。何か関連がありそうである。
- 後漢書に「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」とあるように、狗奴国は卑弥呼が都する邪馬台国よりも東にあると認識されていた(拘奴国=狗奴国と思われる)。
「江津」や「江の川」でネット検索すると、邪馬台国=江津説を主張するページがヒットする。私は前述のように、江の川流域はむしろ狗奴国ではなかという立場であるが、いずれにせよこの地域は日本古代史研究者にもっと注目されて良いと思う。
【2015/12/24追記】
江津市で日本海に注ぐ江の川水系と福山市で瀬戸内海に注ぐ芦田川水系の分水界が広島県府中市上下町上下の平地部にあることを発見した(上の地図)。普通分水界は山と山を結ぶ山の稜線にあるので珍しい。「峠」ではないから「山」偏が付かなくて「上下」なのか......(^^;;; ここを拠点とするならば、日本海にも瀬戸内海にも舟で兵力を動員できる。しかも、800メートルくらいの運河を掘削すれば、平底舟を引きずる必要さえ無いだろう。
なお、この地図はグーグルマップを画像的に表示したものである。グーグルマップ自体にリンクを張っているので、パソコンのブラウザ上でクリックすれば、新しいタブを開いて地形表示の地図を表示する。タブレットやスマホでご覧の方は、地形表示にはならないので、手動で地形表示に切り替えてください。